讀書革命 
――或いは、世俗化する讀者



十八世紀末、フランス革命の前後に、ドイツではロルフ・エンゲルジング謂ふ所の集中型讀書(intensive reading 精讀)から擴散型(extensive 多讀)への「讀書革命」の最中であった。この竝行したもうひとつの革命は、無論、他の地域にもその後の時代にも見られた近代的現象である。

讀書革命 

讀書(者)革命 Lese(r)revolution については、生憎とエンゲルジングの邦譯書『文盲と読書の社会史中川勇治譯、思索社、一九八五年三月)では讀めない。この本は「序説」末に斷ってある通り、「主として読書の量を論じている」ばかりなので。これと一對を成し「読書の質を問題にした」といふ『近代讀書史の諸時期 Die Perioden der Lesergeschichte in der Neuzeit』(1969)を、または邦譯書原著に續いて翌年出た『讀者としての市民――ドイツの讀者史一五〇〇〜一八〇〇 Der Bürger als Leser : Lesergeschichte in Deutschland 1500-1800』(1974)を、譯出してくれたら面白かったらうに。語學力無きを如何せん。仕方無いので、邦文の書物史にてあちこち言及される所から察してもらひたい。

ロジェ・シャルチエ編『書物から読書へみすず書房、一九九二年五月)を繙くと、讀書革命説はシャルチエの標題論文「書物から読書へ」中「読書の諸相」の節に述べられてゐる水林章譯、101ページ以下)。また手頃な要約は、ロバート・ダーントン「ルソーを読む――十八世紀の平均的読者像水林章譯、『書物から読書へ』232ページ)にも見える――もっとも、この假説に反例を突きつけるために引合ひにしてゐるのだが。

一五〇〇年から一七五〇年の西欧における読書の形態は、集中型であった。読む本の数は非常に少なく(聖書、数冊の祈書、暦書、青表紙本など)、それを繰り返し読むというものである。このような読書は対象となる本の数が極度に少なく、反復的で、密度が濃いという性格をもっており、多くの場合、家庭内で、また時には夜の集いで声に出して行われる。しかし十八世紀の終わり頃になると、特にヨーロッパ北東部の都市で(ただし詳しい研究があるのは、ブレーメンの場合だけだが)、教養のある人々、言い換えれば広い意味でのブルジョワのあいだには、まったく別の読書形態が存在した。彼らは本をたくさん読む。とりわけ、小説や新聞・雑誌などの、十八世紀にドイツで急増する読書室(Lesegesellshaftengesellschaftcが脱字か。讀書クラブのこと)に置かれていたものを多く読む。しかも彼らは、それらを、一回だけ、気晴らしのために速いスピードで読む。そして、一度読んでしまえば、あとは捨てたり、他に読む人がいればその人のために取っておく。このような読書は本の選択に関してはすそ野が拡がっているが、内容についてはあまり深く考えようとしない表面的なもので、ひとことで言えば拡散型の読書である。

同論異文として「読者がルソーに応える――ロマンティックな多感性の形成――鷲見洋一譯、『猫の大虐殺岩波書店、一九八六年十月、第六章323ページ→『仝』〈同時代ライブラリー〉一九九〇年三月、220ページ→『仝』〈岩波現代文庫〉二〇〇七年十月、304〜305ページ)が先行し、またダーントンは別に「読むことの歴史(川島昭夫譯、ピーター・バーク編『ニュー・ヒストリーの現在 歴史叙述の新しい展望』第七章、人文書院、一九九六年六月、176〜177ページ)でもこの説を疑問に附してゐる。ダーントンが擧げた熱烈なルソー讀者の事例も踏まへてだらう、ロジェ・シャルチエは、「拡張型の読書の時代にも、[……]フランスでは感覚的な小説への心酔、ドイツではロマン主義の先駆けをなす流行が、文学作品の読み方に、かつて聖書の読み方にみられたような特徴をもたらした。すなわち、書物はつねに読み返され、ついには暗唱できるまでになる。そして独りの読書であると同時に、また他者とのかかわりのなかでおこなわれる読書である。書物は、それと取り組む人間を揺り動かし、変化させる、といった特徴である」と述べてゐる福井憲彦譯「読書行為と書物市場 フランス革命の文化的起源によせて」『読書の文化史 テクスト・書物・読解新曜社、一九九二年十一月、110〜111ページ)。小説の精讀者リズールといふものが近代特有だとは夙に讀者論の古典が説いたところであったことを想ひ出さう(アルベール・ティボーデ、生島遼一譯「小説の讀者」『小説の美學』白水社、一九四〇年五月→人文書院、一九六七年十月/A・チボーデ、白井浩司譯「小説の読者」『小説の読者ダヴィッド社、一九五七年九月)。擴散か集中かの單純な二分法で割り切れることではない。この問題については、ラインハルト・ヴィットマン「十八世紀末に読書革命は起こったか」が集中型より擴散型が支配的となることを大筋で認めた上で「この変化を示すために選ばれた形容詞は決して適切なものでない。つまり集中的で反復される読書は意味のない儀礼に相当するのに対し、拡張型読書には無二無三に身を委ねることが許されるのであったから」と言ってゐる理解で、よいと思ふ大野英二郎譯、ロジェ・シャルティエ/グリモ・カヴァッロ編『読むことの歴史――ヨーロッパ読書史』第11章、大修館書店、二〇〇〇年五月、409ページ)。讀書の量的擴大と質的濃度とが交叉反轉キアスムを成すところに逆説が生じるわけだらう。それに、集中的/擴散的(intensive/extensive)といふ言葉にもそれなりに含蓄があるから*1さう惡い形容ではない――もしその多義を踏まへて理解しておくことができるのなら、だが。

なほ邦人著作では、このヴィットマンの研究成果をも參照した戸叶勝也ドイツ出版の社会史――グーテンベルクから現代まで』「第四章 十八世紀半ばから一八二五年まで」中「4 〈読書革命〉と文学市場の成立三修社、一九九二年十二月)があるが、專ら新しい讀者層の擴大としてのみ記述して讀書スタイルの變革であったことを論ずるに及んでない。量ではなく質の問題、いや量が質に轉化する所こそが興味深いのに。他の一般書では香内三郎の生前最後の著書となった「読者」の誕生 活字文化はどのようにして定着したかの新稿「近代的読み方の誕生――読むこと」の効力測定様式」中に「第十一章 ヨーロッパの読書革命素描――の社会的定着晶文社、二〇〇四年十二月、149ページ以下)がある。但し主對象である十七世紀からは外れるため、前著『ベストセラーの読まれ方 イギリス16世紀から20世紀へ(〈NHKブックス〉日本放送出版協会、一九九一年九月、176〜178ページ)で述べてゐたやうな、讀書革命以降の十九世紀に却って濃密に熟讀玩味する精讀者の事例が見られることには立ち入ってない。專門論文では、荒井訓18世紀末のドイツにおける読書革命をめぐって(『言語と文化』第8號、東北大学言語文化部、一九九七年十二月)があり、單純化して批判するダーントンに對してもっとエンゲルジング著(及びヴィットマンの諸論文)に即して詳しく讀書革命論の行論を辿ってくれてをり、さらに後半「書物の蕩尽と断片化」と題して初期ロマン派へと結びつけ、擴散的傾向の下で知の總體性を回復する試みとしてフリードリッヒ・シュレーゲルやノヴァーリスらによる「新しい聖書」といふ〈書物〉構想を見てゆく所に興味がある。ノヴァーリスを書物過剩の出版洪水時代の文脈に置いてエンゲルジングの讀者史も參照しながら論じたものに、佐藤朋之「初期ロマン主義的著者像・読者像――ノヴァーリス『ディアローグ』(一)を中心に――(『Stufe』9號、上智大学大学院STUFE刊行委員会、一九八九年十二月)があった。讀書革命期の一事例とも見做せる學生時代のシュレーゲル弟の旺盛な濫讀っぷりは、エルンスト・べーラー『Fr.シュレーゲル』安田一郎譯、〈ロ・ロ・ロ・モノグラフィー叢書〉理想社、一九七四年十一月、24〜27ページ)今泉文子ロマン主義の誕生 ノヴァーリスとイェーナの前衛たち(〈平凡社選書〉一九九九年七月、55〜59ページ)に窺はれる。

實際、新時代における集中型の讀み方は、ダーントン論文の副題にも見る通り「ロマン主義的な」讀書と形容できようし、とすれば舊い批評語でボヴァリズム(佛語bovarysme ボヴァリスム)として論じられてきたものを何より讀者の心性として再考すべきことにもならうが、しかし、さうした讀書熱は讀むことの擴散無くしてあり得ず裏腹の關係にあるのであって、だからロマン主義といふ語に熱狂や直情や感傷ばかりを聯想するのでなく移り氣や疎外や冷笑――總じてロマンティッシェ・イロニー――をも認めるのであればそのやうな二重性を持たせる限りにおいて適當な呼稱と言ってもよい。ベーダ・アレマン『イロニーと文学』は、フリードリッヒ・シュレーゲルのイロニー(及びそのニヒリスティックな歸結であるニーチェ)を修業時代の文獻學の經驗から出たものと見た山本定祐譯、国文社、一九七二年四月、65〜66・79〜80・117〜118ページ)。アレマン著で文獻學的とは、歴史的とも言はれ(古典研究では「批判的」と同義、「歴史的‐批判的 historisch-kritische」と竝列して連語を成す)、豐富で多種多樣な資料の渾沌と取り組まねばならぬことを指し、換言するなら、擴散型讀書の要請である。精讀だって當然するが、シュレーゲル曰く「批評家とは反芻する読者である。従って複数の胃を持っていなければならない(仝79ページ所引、リュツェーウム斷片27。Fr・シュレーゲル/山本定祐譯『ロマン派文学論』〈冨山房百科文庫〉一九七八年五月→一九九九年七月改譯、23ページ該當)。一書を味讀するにも異文異本異版ヴァリアンツを突き合せねば氣が濟まないのが文獻學者の流儀、本文批判(テキスト・クリティーク)へと向ふ校正癖だ。この多讀 extensive readingにおける複數性=多元論 pluralismが、やがて相對主義へと至る。二十世紀戰間期以降に論議を呼んだ「歴史主義の危機」(K・ホイシー)はここに胚胎してゐた。

世俗化する讀者 

擴散における集中とも言ふべき讀書革命のねぢれた理路は、世俗化といふ概念で解けるのでないか。先に擧げたロジェ・シャルチエ「読書行為と書物市場」は『フランス革命の文化的起源』第四章「書物は革命をもたらすか?」を自ら縮約した論文で、多讀擴散型の時代にも集中型精讀が見られるといふ但し書きはその際の加筆だが、元の章の最終節では「書物から読書へ――読書の世俗化」と題して讀書革命説を取り上げてゐた松浦義弘譯、〈NEW HISTORY〉岩波書店、一九九四年三月→〈岩波モダンクラシックス〉一九九九年十一月、136〜139ページ)。結語に曰く、「[……]読書行為の変容は、歴史家が世俗化として特徴づけることを習いとしてきた、より大規模な変化の一部をなしている」と(仝139ページ)。但しこれは次章「非キリスト教化と世俗化」へ繋げるための措辭に過ぎぬやうにも見え、それだから縮約版では世俗化といふ用語は削除されてしまったのかしれないし、現に第五章では宗教の問題に移ってしまって讀書については僅かに顧みられるのみ(仝156〜157ページ)。讀書革命そのものを世俗化といふことから再考することまではしてくれないのである。しかし參考になるのが、シャルチエが世俗化について、それは非神聖化といふより「聖性の移行」であったと考察したところ(仝166〜168・261ページ)。從來宗教と結びついてきた感情的・精神的エネルギーが新しい價値に注ぎ込まれるやうになった、キリスト教からの離脱は新たな超越性・普遍性・聖性への歸依であった、と言ふ。ここで、このシャルチエ著の題辭エピグラフに引かれてゐたアルフォンス・デュプロンによる啓蒙主義思想への評言が、效いてくる――神話であることを望まないと、あるいは神話であるなんてありえないと、もっとも熱烈に主張する神話ないし共同の信仰」。夙にニーチェ『道徳の系譜學』第三論文が示したのと同種の逆説だらう、曰く、近代科學(Wissenschaft=學問)はなほ眞理への信仰であってその限り現世否定の僧侶どもが保持してきた禁慾主義的理想の最新形式である、云々(信太正三譯「禁欲主義的理想は何を意味するか?」二三〜二五節、『善悪の彼岸 道徳の系譜 ニーチェ全集11』〈ちくま学芸文庫〉筑摩書房、一九九三年八月、563〜572ページ)。そも前述した十九世紀ロマン主義運動からして、教會外へ信心が振り向けられた「世俗信仰 Weltfrömmigkeit」の表はれと言はれる(ヘルムート・プレスナー、松本道介譯『ドイツロマン主義とナチズム 遅れてきた国民』第四章、〈講談社学術文庫〉講談社、一九九五年五月。土屋洋二譯では「現世崇拝」、『遅れてきた国民 ドイツ・ナショナリズムの精神史名古屋大学出版会、一九九一年九月)

さて讀書革命に際してもまづは、世俗化は神聖さの滅却ではなく轉移であったと見ればよい。舊來の少數集約型讀書が對象とした特定の書物とは、それこそ聖書を筆頭とする宗教書であったが(尤も、ルター譯聖書が出たプロテスタント文化圈ならではの讀者層の擴がりが前提にあるにしろ)、さうした宗教的なものへの敬虔な集中が世俗的な書物に向けて擴張されたが故に、文學や哲學があんなにも熱心に讀まれた。殊に小説は、宗教倫理が忌避した道ならぬ色戀沙汰ばかり取り扱ふにも拘らず、その讀者の傾倒するさま篤信家の如し。世俗化とは言ふけれど、聖別されたものが俗臭に塗れてゆく下降ベクトルだけでなく、平信徒たる俗人が聖職者風(clerical=書記・知識人の)に成りたがる上昇志向も含むのに注意――それは近代市民ブルジョワの成り上がり根性といふかスノビズムの問題でもある。このClerc=「学者ヽヽ」といふ概念が世俗化過程において移り變りながら多樣に具現化したことについては、例へばカール・シュミット「中立化と脱政治化の時代」參照*2。固より出家遁世ならぬ凡夫の身にして俗に在りながら聖を求むれば無理が生じようし、聖職者向きの嚴格主義の要求に應へることのかなはない大方の信者には却って信仰を投げ出す傾向も生むが。

次いで、擴張=擴散がもたらす世俗化のもう一つの局面がある。シャルチエはルイ=セバスチァン・メルシエ『タブロー・ド・パリ』(原宏編譯『十八世紀パリ生活誌 タブロー・ド・パリ』上下〈岩波文庫〉岩波書店、一九八九年六月・七月)から興味深い首都風俗を紹介してゐた。即ち、革命前の時代に「王樣風」といふ形容が卑俗で多用される決まり文句となってをり、それは王政への敵意からどころかその反對、良いものや素晴らしいことを言ふ比喩として商品はあれもこれも「王樣風」と冠されたのだったが、さういった日常茶飯の頻用が逆に王の超越的價値を貶めた、と(『フランス革命の文化的起源』129〜130ページ、『読書の文化史』105ページ)。謂はば言葉のインフレーション(膨張)であり、價格は高騰したが額面の價値は低落したわけ。シャルチエは明示しなかったが、これは讀書の擴散に重ねられることなのだ。この例から類推を働かせれば、騰貴と下落とが相反するといふより樣態を異にした背中合せの現象であるのと同樣、集中と擴散といふ二つの相は連動してゐると考へられよう。これと別にシャルチエは讀書革命を述べた節では、メルシエが集中した讀書の喪失を慨く箇所と書物が小判型で普及してゐることを記す箇所とを引用した。曾てのやうには勤しんで讀まぬ、だが今や盛んに讀まれる……「メルシエのいっけん対立しているようにみえるふたつの指摘は、おなじ考えに収斂する。すなわち、日常生活のもっともありふれた情況にさえ浸透し、すぐ忘れさられるようなテクストも、貪欲に読書の対象にしきってしまうことをつうじて、読書は、長いことそれに宿ってきた宗教性をうしなったのだ、という考えに、である。こうして、読者とテクストとの新しい関係がきずかれた。これは、権威を尊ばず、新奇なものによってかわるがわる魅惑されたり失望させられたりし、とりわけ、テクストの内容を信じたり信奉したりすることがほとんどない関係である(『フランス革命の文化的起源』138ページ)。出版市場の好況に伴って讀書需要も膨張し、あたかも信仰復興リヴァイヴァルの如き讀書熱が俗世に弘まると共に、飽くなき渇仰ゆゑ滿足を知らず次から次へと新しい書物を漁ることともなる。この擴散の中で價値觀の相對化が進むと、讀むことはむしろ不信の徒の批判的な營みと化す。正に十八世紀末讀書革命期に現れたカントの「批判」主義が、ドイツ・ロマン派において「批評」といふ新ジャンルを成した――一面では、哲学はもはや批判哲学としてでなければ成り立たず、文学と芸術は、もはや文学批評、芸術批評との連関においてでなければ不可能になっている(ユルゲン・ハーバーマス/細谷貞雄・山田正行譯『公共性の構造転換 市民社会の一カテゴリーについての探究 第2版』、未來社、一九九四年五月、62ページ)。カント哲學とロマン主義をつないだ觀念論者の極言によれば、「このような体系においては、本はただ批評されるために印刷されるに過ぎず、本なしにただ批評だけが行なわれるようになったからには、もう本など必要もないものである(J・G・フィヒテ『現代の根本特徴』一八〇四/〇五年→弘田陽介近代の擬態/擬態の近代 カントというテクスト・身体・人間東京大学出版会、二〇〇七年一月、15ページ所引。柴田隆行[奧附では隆之と誤植]譯「現代の根本特徴」第六講『フィヒテ全集 第一五巻』晢書房、二〇〇五年四月、94ページ該當)

かうした讀書の世俗化が十九世紀以降も持續し、幾度も段階を新たにして波及の範圍を擴げていった。もっと長い目で見るなら、十二世紀以來の修道院式讀書の世俗化、及びそれに伴ふ諸變化といふことにならうか……イヴァン・イリイチ『テクストのぶどう畑で岡部佳世譯、〈叢書・ウニベルシタス〉法政大学出版局、一九九五年一月)、イバン・イリイチレイ・リテラシー――文字によってものを考える精神についての研究がなされることへの懇願――桜井直文譯、『生きる思想〔新版〕 反=教育/技術/生命藤原書店、一九九九年四月)、參照。lay literacyとは、clerical(聖職者の・書記の)に對して在俗一般人laicusの文字化を言ってゐる。目に一丁字も無い庶民までが自己や世界を文書や書物の隱喩で捉へるやうになって精神的に識字化された、と説くのがイリイチの論法の味噌で、つまり文盲であれ無教養であれ何人たりとも逃れやうのないほどリテラシーといふ概念が擴張された次第。


*1

同根の名詞intensionは論理學用語だと内包、intensityは強度・濃度。對してextensionは、論理學における外延、哲學用語でいふ延長の意味がある。雙方を、構造主義が基本としたやうな二者擇一で相互排除的な二項對立關係(A/non-A)に則るものとせず、それとは異質なレヴィ=ブリュルの謂はゆる前論理に準じた融即的對立關係(A/A+non-A)と認められないか。言語理論家ルイ・イェルムスレウによると、融即律(loi de participation 分有の法則)に從ふ自然言語の論理では、Aとは非Aとの對立で定義されるのでなく、A及び非Aを一括したものとの對立を通じて、つまりA自身もA以外をも含む不明確さを特徴とする擴がりからAに意味を集中することで明確化されるものである。そこで、Aへと狹義に限定して單純化された項を「内括 intensif」とし、これに對立しAでありつつ非Aでもあるやうな複合項は「外括 extensif」と名づけられた。立川健二キルケゴール、ブレンダル、イェルムスレウ 《デンマーク構造主義》にかんする覚え書青土社現代思想』一九八八年五月號「特集 キルケゴール 反復とアイロニー」169〜173ページ參照。またこの點の要旨を簡約に述べ直したものに、山田広昭との共著『ワードマップ 現代言語論 ソシュール フロイト ウィトゲンシュタイン』(新曜社、一九九〇年六月)中「イェルムスレウ 言語としての主体、あるいは内在論的構造主義の可能性」の項目がある。立川が敵役として對立させるのはロマン・ヤコブソンである――もっぱらA/non-Aという排除的対立関係にもとづくヤーコブソン流の二項対立論とはちがって、イェルムスレウの融即関係論は、論理学的ロジックではなく自然言語のロジックを明らかにする」(仝95〜96ページ)云々。

しかし構造主義と言ふことではコペンハーゲン學派以上に著名なプラハ言語學サークル、就中ヤコブソンは、別途、日常言語に見られる對立が示す奇妙な偏りに注目し、それが論理學上の「矛盾対立(A/〜A : 生/死)でも反対対立(A∽B : 暑い/寒い)でもなく別種の関係をなす事実」を考察してゐた(山中桂一『ヤコブソンの言語科学2 かたちと意味』勁草書房、一九九五年六月、80ページ)。立川が特筆したのと同じイェルムスレウの格範疇(カテゴリー)論(但し「イェムスレウ」と脱字、107ページでは「イルムスレウ」、125ページ「イエムスレウ」、卷末索引のみ「イェルムスレウ」と正しく表記するが採録は80ページのみ)から引照した上で、山中著は言ふ。「この段階でヤコブソンは明らかにデンマークの豊かな伝統(1936:2.26[=米重文樹譯「一般格理論への貢献――ロシア語の格の全体的意味――」『ロマーン・ヤーコブソン選集1 言語の分析大修館書店、一九八六年三月、75ページ該當])のことを知らなかった」(80ページ)、「今世紀を代表するふたりの言語学者がほぼ同じ問題圏について、ほぼ同じ概念を駆使しながら、それぞれ自国の伝統だけに拠っていたのである」(81ページ)、と。それは「いつもながら言語研究の局地性、伝統の不連続のせいである」(80ページ)にせよ、一國内でも同樣に學問研究は沒交渉、山中著は立川論文を參照せず、立川もその後山中著に應答してないやうで、雙方を併讀した第三者の論も見當らない。ここで兩者を單純に對立させるのでなく、繋げて複合するとしよう。

まづプラハ學派でニコライ・トルベツコイが對立關係を分類して、對立項の間の關係によって缺如的・漸次的・等値的對立の三種を見出した(トゥルベツコイ『音韻論の原理』長嶋善郎譯、岩波書店、一九八〇年一月)。重要なのは缺如的對立(privative Oppositionen 山中著58ページ「欠性対立」)である。これは有聲音對無聲音のやうに特性を示す徴表(Merkmal=標識)の有るか無しかで特徴づけられ、その對立項をそれぞれ有標/無標(marked/unmarked 有徴/無徴)と呼ぶ。徴表が無いこと(不在)によって他と對立する項があること(存在)を措定したのが、發想の妙だった。「トルベツコーイの気づいた標識とは、要するに、対立する二項の片方について知覚される何か付加的な因子ということであった。つまり、A対B(ないしA対非A)と思われていたもののなかに、厳密に見てゆくとA対A+αという内部構造の多いことを発見したのである」(山中88ページ)。先んじてソシュールが「言語というものは何かと無との対立をもってこと足れりとする(1972:124)ことがあり、ある概念を表すのに必ずしも有形の記号を必要としない、という一般論を引き出した」のも踏まへたらしいが、「考えてみれば、欠性対立という命名じたい、標識の存在よりもその欠如の方に重点を置いたもので、トルベツコーイの着眼は、音韻という新たな分野のなかで、ゼロ記号における《有対無》の関係をあべこべに眺めてみただけではなかったかと推測したくなる」(89ページ)。そもカントの謂はゆる缺性的無nihil privativum)は、論理的には單に+に對する0に過ぎないが、現實的には+に對する−として、他を無化する何か或るもの(存在者)に轉じるわけ(『九鬼周造全集 第十一卷』「講義 文學概論」岩波書店、一九八〇年十二月、28〜29・54ページ。――因みに九鬼は、融即に當る「分預participation」にも觸れてはゐる。26・83・85ページ)。

この對立概念を音韻論以外にも敷衍して一般記號論への展開を導いたのが、トルベツコイの盟友ヤコブソンであった。その形態論研究では、「相関する二つの屈折形に共通する一般的意味(α)を見いだし、それが積極的に表明されているかいないかによって有標項(+α)と無標項(±α)および後者の特殊的意味(−α)を選り分けてゆくというのが、ここでヤコブソンのとる基本的アプローチである」(山中著120ページ)。無徴は有徴でないといふ否定形によってしか定義されず直接に感知し難いだけに、索出すべきは無徴項なのであり、それが±αであることからイェルムスレウの術語だと外括的な複合項に相當すると知れよう。項の一方ばかりが有徴(しるしつき)とされるこの二項對立は非對稱的であり、いづれかを優勢(dominant=支配的)とする價値づけを内包する(イェルムスレウ用語で謂ふ所の共示(コノテーション))。カイム・ペレルマン(三輪正譯『説得の論理学 新しいレトリック』理想社、一九八〇年五月、187ページ)に依據しつつ柄谷行人(『隠喩としての建築』「形式化の諸問題」4〈講談社学術文庫〉一九八九年三月、140〜142ページ)が指摘したやうに、現象/本質といった二項對立は第一項内部の諸樣相間に上下關係を區別する規範として第二項が上位に括り出されたものだから、「第一項/第二項」は{(第一項/第二項)第二項}といふ包合的な圖式に表はせ、單に對概念を同位竝立させた列擧法ではなく分割法に從った重層的な派生序列を内藏してゐる。例へば意味の分化に沿って見ると、「animalという辞項の用法は{([animal] : person) : insect/bird/fish} : plantのように三重の入れ子式になっている」(山中97ページ)。さらに徴表概念を擴張した文化記號論の説く所では、一般に、社會システム内に屬する諸項(例、共同體のメンバー)は無徴的で自明視されるのに對し、周縁にある項は有徴化(marking)され、攻撃誘發性(ヴァルネラビリティー)を帶びた(しるし)づけによって無徴項から排除の的となるものだ。定番の例でman/womanだと、派生形で有徴のwomanに對しmanは無徴であり、狹義には男性といふ限定的意味だが、對立項である女性を含む人間全般を指す包括的意味をも有する。「このような場合、有標の辞項はAという特性、すなわちここでは[……]性別を表示するが、他方無標の辞項はふつうAの表示をせず(=一般的意味)、場面あるいは文脈からの限定をうけたときにのみ、〈Aでない〉という特殊な意味において理解されるというのがヤコブソンの主張である」(山中96ページ)。かかる不均衡な對立では、環境によっては有徴の徴表が失效し、そこで中立的になった無徴項が有徴項の代りを務めることがあるわけで、これを對立の「中和」と稱す(Neutralisation 中立化・中性化とも譯せる。山中著はこの術語に言及無し)。即ち「対立項を排除した意味に用いられる場合と、中立的な意味で用いられ、対立項を包み込んでしまう場合とがある」うちの後者であり、例へば「大と小、長と短、広と狭などの意味の対立を考えてみると、大や長や広が無徴項であることは、小さなものや短いものや狭いものでも大きさ長さ広さをもつという日本語の例によくあらわれている。」「すなわち無徴項は有徴項と同一レベルで対立すると同時に、その基層をもなしているのであり、有徴項はその基盤の上に、際立った徴表を加えてあらわれるが、その機能を果す上でこの徴表はいつも際立っている必要はなく、場合によっては消失するのである」(田島節夫「構造と因果性――歴史認識の条件――」『新・岩波講座 哲学 11 社会と歴史』岩波書店、一九八六年四月、272ページ)。

蓋し「中和」と「融即」とは、門を閉ざして車を造るも門を出でて轍を合するが如し。立川健二は、「プラーグ学派のヤーコブソンたちの音韻論などは、プラスかマイナスかという排除的な二項対立から音と音の関係を考えていきます。けれどもイェルムスレウは、言語における二項対立は融即的対立関係であると言います」と解説して、左記の如き具體例を出す。

たとえば、形容詞の対立はどうなっているのか。英語のbiglittleは、プラスとマイナスのように対立していると、私たちはなんとなく思っています。でも本当にそうでしょうか。

たとえば疑問文を考えてみます。How big are you?という聞き方はしますが、How little are you?とは言いませんね。これは、oldyoungでも同じです。How old are you?とは言っても、How young are you?とは言わない。つまりbigというのは、「小」に対立する「大」だけではなく、「小ささ」をも包み込んだ「大きさ」というようなことも意味しているわけです。

イェルムスレウ流にこの対立関係を書けば、littlebiglittleと対立することになります。

立川健二「世界は言葉のなかに存在する――言語とその主体」『栗本慎一郎「自由大学」講義録⑤ 脳・心・言葉 なぜ、私たちは人間なのか』〈カッパ・サイエンス〉光文社、一九九五年十一月、199ページ

だがこれなどむしろ有徴無徴に關聯して屡々擧げられる類の例だったことは既に見た通りで、その他高低・多少・輕重といった外延量の形容詞はおしなべて、語形とは無關係ながら意味において缺如的對立關係にある。右例の疑問文では「大きさ」が無徴ゆゑに中和位置に立って「小ささ」を表はす役割をも兼帶してゐるのであって、質問が特に「大きいこと」を前提としてない場合その±bigといふ辨別素性の對立が中和化してゐると言へる。ほか、漢語で對義を組にした二字熟語のうち、異同・緩急・動靜・難易といった用例を指して「帶説」(『大言海』自序が説き、『新明解国語辞典』に立項あり)もしくは偏義詞・偏義複詞などと呼ばれる現象も、中和に相似であらう。中和と融即とを列べて取り上げたものに、オスワルド・デュクロがツヴェタン・トドロフとの共著『言語理論小事典』(朝日出版社、一九七五年五月)中に執筆した「言語範疇」(伊藤晃譯)の項もある。そこでは、無標は「またときとして拡散的 extensifであるといわれ」、「他の要素は集約的 intensif、あるいは有標の marquéものといわれる」(183ページ)と説明されてゐた。

以上、「正統構造主義」のヤコブソン式二項對立論であっても精讀すればイェルムスレウ流の下論理的システムを内包してゐることは明確にされたと思ふ。立川健二も初めの「キルケゴール、ブレンダル、イェルムスレウ」ではそのことに留意してをり、イェルムスレウ自身が「有標(marqué)と無標(non-marqué)のかわりに、内括ヽヽ(intensif)と外括ヽヽ(extensif)というべきである」と述べてゐたこと、また「ブレンダルとイェルムスレウ二人の弟子であったトウビュ」(Knud Togeby)が雙方の一致を結論としてゐたことは、その引く所であった(172・173ページ)。トウビュ曰く。

三人の言語学者は、融即的対立関係の二項を表わすのに三つの異なった用語法をつかっている。ローマン・ヤーコブソンは、有標ヽヽ(merkmalhaft)と無標ヽヽ(merkmallos)(ゼロ)を区別する。イェルムスレウは、内括ヽヽ外括ヽヽ(その意味ないし用法は内括項にまで拡張する)を問題にしている。そしてブレンダルは、正の項と負の項に中立項と複合項を対立させている。

にも拘らず立川はすぐさま、「ヤーコブソンの二項対立論をこのように〈融即的対立関係〉論と同一視することには、問題がないとはいえない(この点にかんしては、クロード・ジルバーベールの画期的論文「イェルムスレウの認識」[Zilberberg 1985]を参照してもらうのがいちばんよい)」と附言してゐたけれども、生憎、そんな讀めない文獻に議論を預けられたってどこが問題なのだか解しやうがない。 

なほ蛇足ながら、リュシアン・レヴィ=ブリュルが『未開社會の思惟』(山田吉彦譯、上下、〈岩波文庫〉岩波書店、一九五三年九月・十月)に謂ふ所の融即(participation=分有)はデュルケーム學派が社會學・人類學に導入した「聖」概念の論理學・哲學からする定式化であり、これが田邊元の「種の論理」に攝取されたとは中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』(集英社、二〇〇一年三月、「第三章 構造主義と種の論理」65ページ以下)によって一般にも知られてゐよう。してみれば、イェルムスレウが内括項・外括項といふ用語で整理した融即的對立關係を、田邊元が從來の外延的對立と區別して持ち出した内包的對立といふ自己分裂の論理に比定するも一興か。田邊元「論理の社會存在論的構造」(『田邊元全集 第六卷』筑摩書房、一九六三年七月、315・320ページ)、及びこれを敷衍した『フィロソフィア・ヤポニカ』「第四章 多様体哲学としての種の論理」101ページ以下、參照。

*2

長尾龍一譯「中立化と脱政治化の時代」『カール・シュミット著作集Ⅰ 1922‐1934慈学社出版、二〇〇七年五月、208ページ/田中浩・原田武雄譯「中性化と非政治化の時代」『合法性と正当性』所收、未来社、一九八三年十一月、154〜5ページ。以下引用。

このような諸概念の多義性を示す、もうひとつ社会学的な実例をあげるならば、精神性と公的なものの代表、つまり学者ヽヽClercという典型的な現象は、各世紀特有のその特質を、中心領域から規定されている。十六世紀の神学者、説教師たちに続いては、[神學から形而上學へ中心領域が移った]十七世紀の学識の深い体系家たちが真の学者共和国を形成し、大衆からはるかに隔って生きている。次いでは、いまだ貴族的な十八世紀の啓蒙文筆家たちが続く。十九世紀に関しては、ロマン主義的偉才らの間奏曲によって、また個人宗教の多くの司祭らによって、まどわされてはならない。十九世紀の学者ヽヽ――その最大の例はカール・マルクスである――は、経済専門家となるのであって、問題はただ経済的思考が、そもそも、学者ヽヽというタイプをなおどこまで許容するか、そしてどこまで、国民経済学者および経済的教養をもつ法律顧問たちが、精神的指導者層たりうるか、なのである。いずれにせよ、技術的思考にとっては、学者ヽヽはもはや不可能であるように思われるが、これについては下記で、[二十世紀といふ]この技術主義時代を論ずる際に、なお述べることとする。[下略]

ついでながら、『知識人の裏切り』(宇京頼三譯、〈ポイエーシス叢書〉未来社、一九九〇年十月)と譯されるジュリアン・バンダの著名な書物の原題で「知識人」とはclercsであったことも想ひ出される。聖職者として普遍的なものへの信念と非世俗的であらうとする態度とを堅持すべきであるといふわけだが、カトリック教徒たるシュミットですら古義の儘のClercが十九世紀以降に超然と存續できるか懷疑的であったのは見ての通りで、聖なるものへの尊崇を消散させた世俗市民の讀書人には猶のこと不信が萌す。現代英語でclerkは事務員に過ぎない。


【書庫】書物史展望 > 讀書革命――或いは、世俗化する讀者

▲刊記▼

發行日 
2010年1月24日 開板 / 2012年7月11日 改版
發行所 
ジオシティーズ カレッジライフ(舊バークレイ)ライブラリー通り 1959番地
 URL=[http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/biblio/revolution01.htm]
編輯發行人 
森 洋介 © MORI Yôsuke, 2010-2012. [livresque@yahoo.co.jp]
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