『未來のイヴ』讀むヽヽ(つづき)

〔承前〕


しかし、機械とは何か。古典的定義では、それは質量ある物體を組み立てたものだ。例へばフリッツ・ラング監督『メトロポリス』の女ロボット・マリアは、全身甲冑状の銀板メタルで覆はれ、金屬そのものの質感をむき出しにすることにより、機械のイメージを象徴した(ほぼ『スター・ウォーズ』のC3POに似てゐる)。現在『未來のイヴ』の插畫として知られるジャック・ノエルの圖(一九五七)もその線に近い。だがそれは未完成體、骨格である。『メトロポリス』でも、人型機械は肉附け作業後に完全な女性の姿を具へた。ハダリーも亦、アリシアといふ原型を受肉することで甫めて生きた存在となつたのだ。この完成形においては、もはや機械の特性と謂はれるぎこちなさ等はすつかり拂拭される。とすれば、それは古典的な狹義の機械――力學的構成物――ではない。

ではここで機械とは何か。西垣通の定義によれば、機械とは「人間の形式化への希求を具現化したもの」である(『デジタル・ナルシス』)。まさしく『未來のイヴ』はそれだ。理想ハダリーとは、完全無缺な人間の形式を機械に具現化した代物しろものだつた。西垣通によると、エレクトロニクスの發達した現代では、機械の本質が「力学的な動作」ではなく「定められた動作」にあることが明らかになつた。例へば蒸氣機關の類と、今世紀の情報機械との差だ。つまり「設計図という抽象的世界のなかで記述された動作を形式的に遂行するのが機械だ、ということになっ」た。機械は、質量ヒユレーより形式エイドスと重ね合はせられる次第だ。『未來のイヴ』の場合、前世紀末の作品でありながら、リラダンの觀念性ゆゑに、この現代に相應しい形式としての機械になつてゐる。正に未來の、來るべき機械だ。

だが氣を附けよう。機械は純粹な形式とイコールでない。西垣通が注意する通り、「完璧な〈形式〉は地上に存在しない。我々は〈機械〉によってそこへ向かうのだ」。即ち、機械は形式=設計圖と我々人間の身體とを結ぶ中間項だと云ふ。設計圖は目標であり、それを具現化した個々の機械そのものは常に誤差ずれが出る。機械にだつて個性はあるのだ。すると、機械とは兩義的存在である。ちゃうど言語のやうに、抽象的・普遍的な觀念イデアを示しつつ、具體的・個別的な事物を指してゐる。この兩義性をもつ限り、機械主義メカニズムとは二項對立の一方を却ける主義イズムではない筈。つまり機械に對する人間性、精神、生命、感情等を切り棄てるのでなく、それらの特異性シンギユラリテイをどこまで一般的觀念イデア形相エイドスのうちにすくひ上げられるかが課題なのだ。我々は機械といふ個物オブジエ(=メカノ?)によつてそれをぎりぎりまで現はさうとする。だから機械において、冷徹な形式化の論理は、逆説的だが、情熱的なロマンティシズムの欲望に結びついてゐる。かういふ兩義性が、所謂機械(但し形式としての)と人間(但し理知的でない)、雙方へのイロニーとなるのだ。『未來のイヴ』を、この兩義的な「欲望する機械」と名づけても可だらう。

結局、嚴密に言つて「機械」とは何か? 質量と形相の絡み合ひ、これをスコラ哲學的に「概念」と呼ぶなら、「機械といふ概念」の本質は何なのか。從來の概念定義は大部分が機械の外形的特性の記述にとどまつてゐたから、その内包たる「機械性」を定義し直す必要がある。そのやうな試みとして、西垣通に加へて、丹生谷にぶや貴志「エクス・マキナ」が參考になると思ふ。丹生谷はまづ澁澤龍彦「悪魔の創造」からの引用を掲げてゐた。『思考の紋章学』に收められたこのエッセーは、澁澤の人形愛論考の中でも『未來のイヴ』を最もよく論じたものだつた。と言つても、專一に論じるでもなく斷片的に取上げるのみ、丹生谷の引用したのも別の件りなのだが。

〔……〕伝説によると、十三世紀最大のスコラ哲学者として知られるアルベルトゥス・マグヌスは、木と蝋と銅でできた一個の人造人間を造り出すことに成功した。人造人間はアルベルトゥスの召使として、まめまめしく立ち働いていた。或るとき、ドイツのケルンにあった哲学者の邸に、彼の弟子のトマス・アクィナスが訪ねてきた。トマスが門をたたくと、人造人間が出てきて、うやうやしくドアをあけ、何かわけの分らぬことを喋り出した。トマスは恐怖に駆られて、思わず、この人造人間をぶちこわしてしまった〔……〕。

――澁澤龍彦「悪魔の創造」『思考の紋章学』

右を寓話解釋して、澁澤は「人造人間造出の野望に伴う宿命的な不吉の匂い」を指摘する。造物主のみに許された御業みわざを簒奪し、人の子の分際で父なる神の創造の祕密を盜む如き惡魔的所行は、結句「ぶちこわし」に歸する、といふわけだ。澁澤ならずとも誰もが思ひつく位、當り前の解釋だらう。實際『フランケンシュタイン』も「砂男」も『ゴーレム』も『メトロポリス』も『R・U・R』も、みな人造人間が悲劇を招いてしまふ。勿論『未來のイヴ』も。拔かりなく典型に沿つて、ハダリーが災厄のため海の底に沒する結末を迎へる。嗟乎ああこれも神罰なるや! だが、このいかにも廣く行き渡つた觀念枠組に、丹生谷貴志は異論を立てた。トマスの激情が、神を恐れる敬虔ゆゑでなく、機械そのものの現前に脅かされた所爲だとしたら? ……トマス・アクィナスにおいて、とはつまり、西歐の思想體系において、精神/肉體の二元論が基本構圖だ。むろん神に屬する精神が上位に立つ。ここでは、機械とは精神なき肉體=質料マテリアルであり、精神といふ主人が統御する奴隸=道具としてある限りでのみ許し得るものでしかない。アルベルトゥスは己れの機械人形が「召使」=道具だと知る故に脅えを感じなかつた。しかしトマスがそこに見たのは、「召使」としての機械ではなく、文字通り自動人形オートマトン、つまり「精神ヽヽによってではなく全く別の意志ヽヽ、機械自身の意志ヽヽ、言わば自然の自己組織化ヽヽヽヽヽに於いて動く、信じ難いヽヽヽヽ何ものかだったのである」。言ふなれば、それはもはや道具ではなく「それヽヽは「機械」、本質的な意味でのヽヽヽヽヽヽヽヽ「機械」として出現したのである」……(丹生谷貴志「エクス・マキナ」)。

ここで丹生谷の「機械」定義が始まる。……機械の定義は、例へば「人力を用ゐるものは道具で、人力以外の動力源をもつものが機械」といふ素朴な定義から始まつて現在に至る迄、最終的に道具へと還元される形で行はれて來た。それ故「機械」と「道具」とを分別することが先決だ。まづ「道具」とは何か。道具は、その上位・外部に體としての使用者をもち、その操作主の意志・意圖を實現するための媒介物である。それが自動裝置を有してゐようと、外部の使用者の意圖を前提とする限り他動的だから、「道具」なのだ。では、「機械」とは? 論理的には單純、右の道具論から主‐奴の辯證法を差し引けばよい。使用者・制作者のゐないヽヽヽ道具だ。だが一體、決して造り出されたことがない機械が存在した例があらうか。抑も世界は主なる神の創造したものだとするなら、全ては道具化されてゐる。神ですら、この世界に實在した途端に道具論的サイクルに卷き込まれ、主‐奴の辯證法を作動させてしまふ。恐らく「機械」は、常に道具としてしか成立し得なかつた。道具でない機械は未だ存在してゐない。と云つて、機械は道具の進化形態でもない。それは道具性に於てヽヽ隱蔽されてゐる何ものか、なのだ。もし「機械」が機械性そのものとして現はれ出ようとすると、トマスみたいな「機械打ち壞しラツダイト」によつて現象界から消滅させられるのが常だ。來るべき機械論は、この主體=精神による道具化=奴隸化から自由にならねばならない。それは「人間性」を取り戻せと叫ぶロマン主義的反撃とは違ひ、人間性に隱れすむ「意識」をこそ除き去り、道具論=奴隸論の動因として、完全なる機械化へ向かふ鬪爭となる。この道具性の倒錯に於てのみ機械は實存するのである。……云々。

以上、機械といふ概念が展開する論理を逐つて來た。迂回はもうよい。あとは『未來のイヴ』に即して展開するだけだ。

『未來のイヴ』は人間‐機械をめぐつて展開された觀念小説である。この機械は、エディソンの説くヘーゲル式精神現象學、主‐奴の辯證法の産物である限りにて、未だなほ道具性にとどまつてゐる。まづさう見るのが順當な讀み・・だらう。

ところが結末が問題だ。機械美女ハダリーの完成でエワルド卿が絶望を救はれたのも束の間、英國へ歸る汽船が原因不明の火災から沈沒、同船してゐたアリシア孃もハダリーも、水底に葬られてしまふ。エディソンは、辛くも生存者となつたエワルドから屆いた電報を讀む……「ハダリーのことのみ唯無念なり。ただこの幻の喪に服さむ――さらば!」……。成程、見事な幕切だ。しかし何故に機械に死が訪れたのか。澁澤龍彦なら惡魔的創造の宿命と言ふだらう。A・W・レットや齋藤磯雄等の研究者も同樣の見解だ。被造物に過ぎぬ人間が造物主たらんとした報ひと見るのは、一理ある讀み・・ではある。が、道具論的世界に於る主‐奴の辯證法とは、元來奴隸が主人に成り代はる運動なのだから、ヘーゲルの名の下にむしろ正當化され得る筈。ここはやはり、丹生谷貴志の深讀み・・・を『未來のイヴ』にも適用しよう。丹生谷の機械論によると、機械は、道具性を突き拔けた機械そのものとして現前する度、トマス・アクィナスにやられた如く打ち壞されて來た。だとしたら、ここで滅ぼされた女性機械も、丹生谷の云ふ、トマスが見た「精神なき身體」ではなかつたか。つまり外部に如何なる操作主も有さない文字通りの自動・・人形。エディソンやエワルドの主觀が與へた精神ではなくて機械それ自體の意志を具へた何ものか――それがハダリーに於て現はれ來つたのではあるまいか。

どうやら『未來のイヴ』は、丹生谷式定義に照らしてさへ、道具性にはとどまらぬ「機械」として、認定し得るのだ。ヴィリエ・ド・リラダン家の家訓“Va Oultreこえてそのかなたにゆけ”は「前進また前進」とも譯される。何事も極端なまで徹底する性分ゆゑ、機械といふ觀念の論理を紙上に展開する以上、その「機械性」を發揮させずには濟まなかつたのだらう。しかしながら、機械たらんとすることが自律的意志を持つことになるとは、逆説にしても度が過ぎてゐまいか。だが、さうなのだ。ハダリーは、徹底した機械でありながら(であるが故に)自ら意識を具へるに至つたのだ。しかもそれは最早、エディソンが説いた如き精神現象學的な見かけ上の意識なのではない。エディソンが豫め入力した設定プログラムの再現でもなく、エワルドの主觀が投映された幻想イリユージヨンでもない。ハダリー自體が意識を生じたのだ。謂はば「機械の中の幽靈」の發現。どういふことか。――これを讀み出した・・・・・のが、南條竹則『虚空の花』であつた(やつと本題に迫れさうだ)。

南條竹則『虚空の花』は、『未來のイヴ』を讀み・・進めた上で、「この作品の筋書の上で一番肝腎な“ある問題”」に注意を喚起する。「それがわからなくては、この小説を読んだ・・・ことにはならない」し、「丁寧に読めば・・・誰だって気がつくはずの問題なんだが」、なぜか從來の『未來のイヴ』論では不思議にも觸れられて來なかつた劇的核心。それは、完成したハダリーがエワルドと對面して語る場面より讀みヽヽ取られる。語る者は、即ち、エディソンが造らうと意圖した言語機械ではなく、ハダリーの機體ボデイのうちに宿つた一個の自立した魂なのだつた。エワルドにあなたは誰かと問はれた彼女は、語つて出自を明かす。それによると彼女は、氣高き青年を絶望より救ふべくつかはされた天来の使者とも言ふべき存在で、青年の望む輝かしい肉體を身に纏ふことを諾ひ、青年に訴へるに最も相應しかるべき姿を取つて可感世界に影を映してゐるのだといふ。謂はば「永遠に女性なるもの」(『ファウスト』)のイデアが、理想ハダリーといふ完全なる肉體を媒質なかだちにして現象界に顯現することを得た氣配。このエディソン製の空虚な器は、餘りにも完璧な形體を具へ切つて、後はもはや魂だけしか・・・・缺けてゐなかつた爲に、缺を補ふべくそこにしかるべき生命を呼び込んでしまつた。かくして本來この世に存在し得ぬ筈のイデア界の住人が地上に生を享けた。さうして、ひとたび青年の心裡にその存在を刻印してしまへば、理想イデアとしての高貴さを保つため物質界になづまぬうちに身を消滅させ、再び純粹觀念として存在すべきことになる。……これが、『未來のイヴ』に見る機械性そのものとしての自發意志の正體だ。

かうなるともう一種の奇蹟だ。物語から現實味リアリティは飛び去り、科學は神祕主義オカルテイズムに席を讓る。だから同じく被造物が自主性を持つやうになる筋でも、科學小説に於るチャペック以來のロボットの叛逆テーマとはわけが違ふ。最早エディソン氏説くヘーゲルもどきの唯我的な觀念論の出る幕ではない。絶對の現前をまへに、奇蹟を起こす存在への信仰が問はれるだらう。そもそもリラダンは、バルベー・ドールヴィリ、ユイスマンス、レオン・ブロワ等と共に、過激カトリック派ユルトラ・モンタンといふ名で括られる程。この十字軍士の裔(但し自稱)は、師ボードレールと同じく熱烈な信仰の徒だつた、といふのが齋藤磯雄の強調する點だ。齋藤の論に從ふと、リラダン愛用のヘーゲル思想は、敵とする近代俗衆ブルジヨワの唯物論的な風潮に反撃する爲に觀念論的哲學を用ゐたにすぎない。同じく科學も、彼にとつては科學萬能主義を斬るために敵の武器でお返ししただけのこと。神祕主義すら、神に近づく爲の踏臺でしかない。全て信仰といふ第一目的を得るべき手段なるのみ、それ達成すれば捨て去るに如かず、決して本心より支持せるものに非ず、と云ふのだ。さういふことなら、我ら不信心なる現代讀者には口を插む餘地など無くなつてしまふ。蓋し、他人の信仰は口出し無用の域だらう。曰く「世の中には言明されるを欲しない思想がある」(ポオ)とやら。

けれども思つても見よ。齋藤磯雄も注意した通り、リラダンを讀む・・者は、しばしば根本にある信仰の精神を見逃し、ヘーゲル哲學、時代批判の反語イロニー、神祕主義等の題目に執はれた讀み・・をしがちなのだ。レミ・ド・グールモンに至つては、ヴィリエに神への信仰さへも揶揄する語を見出した上、彼は信仰者となることで「知的陶酔のあらゆる形を」味はつたのだと云ふ位(『仮面の書』)。それに、ハダリーといふ無機物に天上の魂が宿る段は信仰から發想したのだらうが、南條竹則も書いてゐたやうに、これまた讀む・・者にはなぜか看過されがちの所だ。のみならずこの件りは、『未來のイヴ』に於てサブ・ストーリーを成す神祕主義的な女性ソワナの物語と深く關はるのだが、ソワナの話も亦、讀者が『未來のイヴ』を讀む・・際には無視されるのが常だつた。南條『虚空の花』にてすら、危ふく要約から拔け落ちる所だつたのだ。どういふことか。恐らく、これらの箇所は讀む・・に堪へなかつたのだ。他の明快に徹した部分に較べ、理解を阻むが如き象徴主義的記述が、讀者・・を退けたのだ。そこでは最早リラダンはわれらが讀むあの・・リラダンではないのだ。從つてこれらに就ては、「言明されるを欲しない思想」と認めよう。たとひ「それがわからなくては、この小説を讀んだ・・・ことにはならない」といふ一番の見所みどころだとしても、ここに讀み取るべきことはない。

以上をもつて、どうやら『未來のイヴ』に讀む・・べきことは讀み・・出しておけたと思ふ。あなたは、私が『未來のイヴ』で一番肝心な本題に就て讀解・・せずに濟ませたことに不滿かも知れない。第一『未來のイヴ』を讀む・・と言ひながら、作品テキストそのものはそつちのけで他の名前ばかり讀み・・上げてゐるぢやないか、それでは讀んだ・・・ことにはならない、と。――しかし、讀む・・とは何か。

ヨムとは、本居宣長によれば「モトさだまりてあるコトバを口にまねびて言ひつらぬる」こと、更に柳田國男によれば「中身」よりも「外形」において「誤りの無いことを確かめるに」目的があつた(兵藤裕己『語り物序説』)。活字化された近代に於る讀書では、「本さだまりてある辭」が同時に複數出現してゐる。ひとたび書物の出版されるや、たとひ自分一人以外誰も讀む者がゐない書物であれ、原理的には、常に既に複數の讀者たちと聲を合はせて讀まれる・・・・のだ。その時書物は、喩へるなら、法廷で異口同音の證言者に認められた事實を述べてゐるに等しい。つまり、或る書物にただ獨り向かつてそこに今迄に言はれなかつた事が述べてあるのを見出せるやうな時でも、讀まれた・・・・瞬間、それは常に誰かと同じ辭句ことばの唱和であり、既にどこかで豫め定めてある臺本をなぞるものでしかない。讀む・・とは、既知の再確認なのだ。又、著作を己れの偶然的な個人性に近づけようとするそこらの讀者の行ふ讀書は、印刷革命以後の時代の書物を讀む・・ことではなく、二人だけが見る直筆の戀文を讀む如き態度だ。讀む・・と言ふ以上、むしろ者は「バベルの圖書館」の一員たらねばならない。

〔……〕ボルヘスの考え方にならって、文学の総体はすでに・・・潜勢として書かれてしまっているのであり、現実の一冊一冊の書物とは、すでに存在している文学の総体のごく一部分が、著者という小さな窓口を通過して、多少の変形と夾雑物とをともないながら、書きうつされていったものなのだ、と考えるべきなのだ。そして、書物を讀む・・ということは、そうやって書きうつされた個々の書物のなかにある小さな粒のようなきらめきを、すこしずつ積分していって、ついにははじめに存在していた総体に到る、という巨大な歴史過程の別名なのではないだろうか。

――清水徹『書物としての都市 都市としての書物』より

マラルメの來るべき〈書物〉はここに讀まれる・・・・。『未來のイヴ』も亦、そのやうな〈書物〉の斷章として讀む・・べき一品だつた。

だから私は、『未來のイヴ・・・・』を讀んだ・・・その名・・・を含んだ樣々な書かれたものを積分して、その名・・・もとに總體として讀ま・・れるべき・・書物の觀念に想ひ到り、一寸そこから斷章を書き寫してみたにすぎない。ただ既に讀まれて・・・・・・來たものをたどつて私も讀んだ・・・だけ(否、もはや「私」といふ「人間」はゐないのである)。謂はば機械的に名を綴り合せた迄。さうでなくて一體何人が『未來のイヴ・・・・』を讀む・・と言ふのか。今やほぼ豫定の形式はまつたうした。ここまで讀まれた・・・・あなたは、既に『未來のイヴ』を讀んだも同然だ。そこから先はもう自動的に導き出される筈。あとは各自が本題を追求するがよい。

例へば吉田健一「山運び」(『怪奇な話』)。この短篇を共に讀む・・ことで、本稿を結んでみよう。主人公の魔法使ひがアクセルと命名される點でも、リラダンとは縁のある話だ。魔法使ひは、殆ど同じ印象を與へる瓜二つの僧院を持つ島を英佛それぞれに發見し、密かにこれを入れ換へることを思ひ立つ。むろん大魔術になる。魔力向上の練習を積み、綿密な計畫を立て、島の人々に氣づかれぬやう元に戻す所まで考へ、遂に、出來ると信じるに至つた。「従ってアクセルは既に・・そのことをすませたのだったとも言える」。「既に島が入れ換って再び入れ換ったことを知る・・と後はただそれをすることだけが残っていた」。「アクセルが選んだ或る晩それがその通りに行われた」。「アクセルは一つのことをなし遂げたのだという感じもしなくてそれがなし遂げられたのが既に・・大分前のことであるのももう解っていた」。……蓋し、「それは既に誰かが何かの目的があってすることでなくて或る時になって或る場所で起ることだった」のだ。この主體性なき自發性! 機械?! 因みに魔法使ひがそれを出來たのも、小惡魔の召使が人の代りに魔力増進の藥採りをしてくれたからである。だから、この話から導く結論は左記の如し。

讀むことか、それは召使に任せておくがいい――

もし、本稿を成すにあたり私は『未來のイヴ』の本文を開き讀むことなく書いたと言つたら、あなたは、信じてくれるだらうか。

(了)


『未來のイヴ』と共に讀まれた・・・・文獻目録
――あなたが共に讀む・・爲に――(順不同)

□名前について

□ヴィリエ・ド・リラダンについて(含『未來のイヴ』)

□人形について

□機械について

□書物、讀書について

□etc.


【書庫】書評集 > 『未來のイヴ』を讀むヽヽ

▲刊記▼

發行日 
2004年5月 開板/2004年7月8日 改版
發行所 
ジオシティーズ カレッジライフ(舊バークレイ)ライブラリー通り 1959番地
 URL=[http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/review/villiers01.htm]
編輯發行人 
森 洋介 © MORI Yousuke, 2004. [livresque@yahoo.co.jp]
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