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『文藝春秋』附録『文壇ユウモア』解題及び細目
――雜文・ゴシップの系譜學のために―― 

					森 洋介
																								 「わたしは、雑文を愛読する一人である。そして雑文を愛読するのは、わたし一人だけではないことも知っている。」 				――魯迅(註一)
目次
	一		『文壇ユウモア』解題
		一―一 附録の意義を補ふ
		一―二 『文藝春秋』の中の『文藝春秋』
		一―三 佚文發掘――有名性の再認
		一―四 ゴシップにおける有名性の變容と讀者參加
		一―五 投書雜誌、十五錢雜誌の系脈――『文藝通信』その他へ
		一―六 匿名批評――無名性の佚文
		一―七 その他
				註
	二		全號細目
	
一 『文壇ユウモア』解題
一―一 附録の意義を補ふ
月刊誌『文藝春秋』については周知であり、縷説は要すまい。中で、特に興味あるのは大正末から昭和戰前期にかけての創刊後二十年間ほどである。この時代を知るために通覽される代表的な綜合誌のうちでも、後發ながら昭和期に入って『中央公論』『改造』と肩を竝べて鼎峙、發行部數では綜合雜誌首位となった『文藝春秋』は、そのくだけた幅廣さによって社會風俗を反映した面がお堅い他誌に優る(註二)。文學史との關係からもしばしば參照されるのは、ただ創作欄に留まらず、記事全般に廣義の文藝趣味(註三)を生かした編輯ぶりを窺はせてくれるからだ。「文藝の一般化」とも云ふ(註四)。
さて創刊以來の目次を繰ってゆくと、一九三一(昭和六)年四月號から、左端最終行に枠線で圍まれた「附録文藝春秋……(卷末添附)」といふ項が目に止まるだらう。同じく誌名そのままを題にしたものに第一年第二號以來の匿名短評欄「文藝春秋」もあるが、それとは別だ。この『附録 文藝春秋』は一九三一年六月號から『別册 文壇ユウモア』と改題、この角書を八月號で「附録」に戻した後、一九三三年一月號以降『附録 文壇ユーモア』の表記となって同年七月號まで續き、通計全二十八號に及んだ。「ユーモア」といふ音引き表記は、『文藝春秋』本誌の目次では一九三二年二月號・三月號で既に見られるが、附録卷頭ではまだ長音符は無く「ユウモア」が題字標記であった(註五)。以下、最も長く使はれた標題を採り、總稱を『文壇ユウモア』とする。これを紹介するのが、本題である。
……何故また、そんなものを? 附録を主題にしようとは本末顛倒、あまりに物好きな――? 實際、從來『文藝春秋』論多々あれど、この附録にまで説き及んだものは尠い。が、さすがこの種の瑣末事に目が利いたのが保昌正夫、連載企劃〈日本の文芸雑誌〉で執筆を擔當した「『文藝春秋』――昭和期――」にて、次のやうに述べてゐる。すなはち「昭和五、六年度」を概觀して、まづ文藝時評「アシルと龜の子」で活躍した小林秀雄の評論について記し、次に創作については同時期に重要作は見當たらないと言ひ、そして「むしろ、五年九月号から翌年三月号にかけて載った『文壇是々非々』欄に、論として、評として見るべきものが少なくない。これをさらにやわらかく、気楽に取り扱ったのが、六年四月号から付録としてついた『文芸春秋』(六月号よりは、巻末に添付されたかたちの『別冊文壇ユーモア』となる)である」と(註六)。評論欄として認めた樣子だ。言及箇所はただこれだけに過ぎぬが、次ページにはわざわざその六月號附録『別册 文壇ユウモア』の表紙寫眞を掲げてある。さらに保昌は後年『日本近代文学大事典』「文藝春秋」の項でも、同誌の性格を「文芸味濃い、「中央公論」や「改造」とは異質の総合誌であった」と規定する論據の一つとして、「この時期の毎号巻末の附録『文壇ユウモア』(昭和六・六〜八・七)などをみれば」と記した(註七)。紙數制限嚴しい中で敢へて筆を割いた敍述である。微言に籠められた含意を著者に代って補説してよいのでないか(註八)。附録といへども、要注意なのだ。「この危險な附録(=代補 supplement)……」(ルソー/デリダ)。

一―二 『文藝春秋』の中の『文藝春秋』
ここに取り上げる附録『文藝春秋』→『文壇ユウモア』→『文壇ユーモア』は、片々たる小册ながら、なかなか見所があって隅に置けない。これから紹介するについで、その價値を明らめるのが狙ひでもある。評價すべき點は色々にあるが、まづ一つに、雜文・ゴシップの系譜上に占める意義が擧げられる。
しばしば言はれてきた如く、初期『文藝春秋』は一九二三(大正十二)年一月號を創刊してからの數年間、雜文主義と文壇ゴシップを賣り物にしてゐて、それが恰度昭和改元前頃から綜合一般誌へと脱皮していった。しかし近年では、永嶺重敏(註九)や坪内祐三(註十)らが改めて強調しなければならぬほど、その卑俗な出自は忘れられてゐるのかしれない。いや、既に當時から、硬くなってきた誌面に新風を入れねばと問題になってゐた(註十一)。そこでこの、ゴシップ・雜文をふんだんに盛り込んだ別册附録が登場した次第だ。
事實、新聞廣告では「生々溌溂の氣みなぎる往年の文藝春秋の復活とも云ふべき附録!」(『東京朝日新聞』一九三一年三月二十日)と謳った。『文藝春秋』一九三一年四月號「編輯後記」では、左記の通り、抱負を語る。
◇昔の文藝春秋のやうな碎けた調子も欲しいといふ讀者の要求が可なりあるので、本號から御覧の通りの附録を添へる事にした。御高評を願ひたい。讀者諸氏の寄稿も期待して追々いいものにしたい。必ずしも此調子を確守しようとする者ではないから新しい同人雜誌の諸氏の寄稿など勿論歡迎する。
謂はば創刊當初への原點回歸の試みである。ここで、讀者參加を促してゐることも留意されるが、後述とする。
翌五月號「編輯後記」では劈頭から附録の反響を傳へてをり、企劃の成功をうかがはせる。
◇四月號から附録にした「附録文藝春秋」は僅か十六頁ながら、なか面白くて半日はたつぷり樂しめて、二三日たつて又讀むと又面白いと、素敵な評判なので、記者も嬉んでゐる。獨立した十錢位の雜誌にしても賣れるよとお世辭を云つて呉れる人もあるので、益々馬力をかけやうと思ふ。附録の事に限らず、何でもどん註文して欲しいと思つてゐる。讀者と共に編輯するのは記者の欣快である。
十錢といふのは『文藝春秋』創刊時の定價でもある。「とも角、定價の安いといふ一條件から、文學愛好者間に廣く好評であつた」(『毎日年鑑 1924』(註十二))等と指摘された、草創期『文藝春秋』の一特徴を想起させる。また、厚さ四百ページ内外に膨れ上がってゐた本誌に對し、ひと周り小さい四六判で薄っぺらな別册附録は、同じく創刊當初の本文二十八ページで出發した小册子體裁を偲ばせたはずだ。中身の形式も然り、最初の四月號附録だけは半分ほど三段組だったが、あとは基本的に全ページ六號活字四段組で、このギッシリ詰った四段組とて元は『文藝春秋』の新案で他誌が眞似るに至ったもの(嚴密にいへば、高畠素之主宰の第一次『局外』誌を前例にした)。今日なほ同誌の卷頭隨筆欄にその樣式を殘す、あれだ。これまた復初の試みであった。
雜誌制作側の自畫自讚ばかりではいけないから、編輯後記以外の同時代評を見よう。『文藝春秋』一九三二年一月號は創刊十周年記念特輯であったが、卷頭隨筆欄でも正木不如丘「文藝春秋滿十歳」が創刊時を顧みてゐる。一九二二年歸朝後文筆活動に入った正木は、慶應義塾大學醫學部三四會(校友會)の文藝部長となった。そこで、どうせ雜誌を出すなら市販しようと「「脈」と云ふ與太雜誌を初め」て「その頃は例のない十錢雜誌にした」ところ、「時を同うして一大敵國[……]文藝春秋が現れた」と言ふ。記憶が前後してゐるのか、事實は『脈』創刊は『文藝春秋』に一年以上遲れた一九二四年四月號だが、ともあれ當時お互ひ誌上で惡口を叩き合ったりしたらしい。正木は「文藝春秋もその頃は隨分いたづら雜誌だつた。全く七つ八つの憎まれざかりで、書きたい事を何の遠慮會釋もなく書いて」と回想したあと、「近來又大人になりきつても、子供時代の駄々つ子時代が忘られないと見えて「文壇ユーモア」などと附録頁をつけて、三つ子の魂百迄もを初めたようだ。いくら大人ぶつてすました顏をしても、生れは爭へぬものだと思ふ」と、醫者らしい譬喩で一文を綴ってゐる。『文壇ユウモア』が雜文雜誌であった初期『文藝春秋』の再興だとは、世評も認めるところだった。
だがこれより先、初めて附録が出るや早速論じたのが、まだ頭角を現はす前の驅出し評論家であった杉山平助(註十三)である。『讀賣新聞』一九三一年三月二十七日文藝欄に「「文藝春秋」今昔」と題し、文藝時評初回分の紙幅をこの附録に關してで費やした。長い引用になるが、これは一讀を要す。
文藝春秋は今月以降は付録文藝春秋といふものが卷末に添付されるらしい。同誌創刊當時に見られたやうなテンヤワンヤ各人勝手な熱を吹きあふ威勢のよさを復活させる計畫らしいが、それが可成りの程度に成功してゐる。[…略…]
この文藝春秋といふ雜誌が創刊當時の立て前から離れて、追々と文壇から遠ざかつて行く傾向を物足りなく感じてカレコレ氣を揉む人もあるらしく、編輯者としてもそれを考慮したのかどうか、數ヶ月前から「文壇是々非々」といふ欄が設けられたやうであるが、これがどうもパツとしない。發刊當時のやうに街のあくたれ餓鬼共が掴みあつたり喚きあつたりするやうなはツらツたる元氣に乏しく、存在が鮮明でなかつた。
雜誌といふものがナカナカ編輯者の思ふ壺にはまらんものであることがあれを見てもよく想像される。ところが今度の卷末付録の企ては、その意味で編輯者お手柄といふべきまことにカンのいゝ思ひつきであつた。
いつたい或る雜誌が生長變遷して行く過程はまつたく有機的とも云ふべきもので、[…略…]さうした編輯者側、寄稿者側、讀者側の微妙な意識が暗々のうちに綜合されて、一つのヂヤアナリスチツク・アトモスフエアが出現するのだから、ある過程を通過して到達したその雜誌のその時期特有の手ざはりとか味といふものは、これを急激に變更しようとしたところで、さうお手輕に行くものではないのである。
そこで雜誌の内容を幾分か改革しようとする時は、[…]改題をするとか[…]編輯者を更迭させるとか、何か思ひ切つた外部的な荒療治が必要となつてくる。ところが今度文藝春秋が、發刊當時の氣分傾向を若干復刊させるため、まづ形式的に一つの世界の分身といふやうなことを斷行したのは、可成りに考へた思ひつきといふべきであらう。
あれだけのものを他の紙面の間にはさむことは、編輯者としての不調和な感情に堪え難いであらうし、また寄稿者側も他の紙面の氣分の壓迫をうけて、持續的にあの欄にあてはまつた原稿を送ることが困難になつてくる。
私は平素から新聞雜誌の編輯批評といふものをもつと盛んに起さなければならないと考へてゐるものなので、この部分的な出來事にも非常な興味を感じてゐる次第で[、]この計畫の今後の變遷を注目しつゞけたいと思ふ。
(杉山平助「文藝時評―― 【一】 「文藝春秋」今昔」)
いささか冗長ながら、編輯批評といふ新境地を提唱するだけあって、杉山平助は目敏く焦點を當ててゐる。いかにも後の『現代ヂャーナリズム論』(白揚社、一九三五年二月)の著者らしい着眼だ。前身とされた「文壇是々非々」といふ意見欄では杉山自身も寄稿者であった(一九三一年一月號「「聖家族」是非」)のだから、體驗に裏打ちされてもゐ、徒らな漫言ではない。「文壇是々非々」欄(一九三〇年九月號〜三一年三月號)も初心に返る企てだったのは、それが新設された號の「編輯後記」に「追々、昔からの「文藝春秋」の讀者に、懷かしい讀物にするつもり」とある通り。體裁も四段組ページであり、但し本文は上三段までで、殘る下一段は「冷嘲熱罵」(三〇年九月號〜十二月號)、「文壇嘘々實々」(三一年一月號)、「文壇ゴシツプ」(三一年二月號〜三月號)の各欄が横に貫いてゐた。それら匿名評論・ゴシップ報を引っくるめての、この附録への轉身である。
要點は、雜誌内雜誌といふ形式にある。文字通りの別册として、創刊初期の誌風を横溢させた分身を作り出し、卷末に添附した。思ひついてしまへば何でもないやうだが、そこに、工夫があった。これぞ、正に『文藝春秋』の中の『文藝春秋』――創刊精神の體現であるといふ意味でも。
けれども、この形式には弱味もある。保存されにくくなることだ。折丁一單位分(一臺=十六ページ)のみの挾み込み別册は、脱け落ちやすく、紛失されやすい。古書でも圖書館藏書でも、現在殘る『文藝春秋』舊號を見るとこの附録が闕本であることが多い。『文藝春秋』本誌は稀覯でも珍本でもないものの、附録は中々完揃へできないのである(註十四)。古書業者の市でこの別册だけ集めて出品されたこともある程だ。また二號目以降、本誌との差別化を圖ってか色インクにして毎號刷色を變へたので、褪色して字が讀みにくくなるものもあり、これまた保存に適さない。そして後年、附録の落丁した状態で讀む者がそれに氣づくには、目次が頼りである。然るに『文藝春秋』各號の卷頭目次は、この附録の存在は示すが、ただ「附録文藝春秋」とか「附録文壇ユウモア」とか記した一行切りであり、それが如何なる記事を含むか傳へない。これと別に「『文藝春秋』総目次」(註十五)もあるが、問題の卷頭目次をそのまま縮刷して列べただけの代物で、本文と照らして採録した「細目」ではない。結局、實物が無い限り附録の中身は知られず、いや實物があってすら、本體のみ閲覽されて見落とされやすい。
やや小型の別册を添附する挾み込み方式は五號目まででやめ、一九三一年九月號以降は卷末に本體からノンブル(ページ番號)を通して共に綴ぢる形式に改まったが、それで一體化して保存漏れは減ったものの、目次から内容を察し得ない不便は遂に解消されずじまひ、やはり盲點に入って見逃しがちである。――但し唯一例外が一九三二年二月號附録に載った鈴木氏亨(漫畫 和田邦坊)「文藝春秋十年史」(註十六)、これのみ本誌の卷頭目次にも掲出された。が、それは前月號からの創刊十周年記念企劃の續きとして特別扱ひであったのだらうし、その卷頭目次の列べ方では「附録 文壇ユウモア」がそれとは別であるかの如く離れて最終行にあるから、「十年史」が附録中の記事だとは氣づきにくい。どのみちこの一本を除き、目次によって内容を探る途は無い。精々、當時の新聞等に出た『文藝春秋』の廣告でたまに附録の中身まで摘記することがあったくらゐ。
ここに『附録 文藝春秋』『文壇ユウモア』『文壇ユーモア』を通した全號細目を編んだのはそのためである。これによって讀者に注意を喚起し、また、いづれの日にか大成さるべき『文藝春秋』細目・總索引のための一助ともなればと思ふ。以下、本稿後半の全號細目を適宜參照しながら讀まれたい。

一―三 佚文發掘――有名性の再認
外觀はこれ位にして、内容に移る。『文壇ユウモア』細目作成によって、誰しも直ぐ氣のつく意義は、全集や著作目録などに漏れた佚文が拾へることである。幾つか例を擧げてみよう。
いきなり一番最初の號から見つかる。一九三一年四月號『附録 文藝春秋』所載、直木三十五「松竹と、日活」。元來直木は初期『文藝春秋』の常連寄稿者であり、一九二五年十二月號「文藝春秋 執筆囘數番附三週年紀念」では(まだ直木三十三だったが)西の横綱で「餘興物無數」とされ、匿名で文壇ゴシップを書きまくってゐた。「當時殆んど無名の直木三十五は、その尖鋭辛辣な筆鋒を、特異の六號文學に發揮した」(菊池寛「十五周年に際して」(註十七))。その後、大衆小説家として今や威名を轟かす直木三十五が本誌に劣らず屡々『文壇ユウモア』に寄稿してゐるのは、これまた本卦還りと言はうか里歸りと云はうか。計十篇、署名文では最多執筆である(漫畫の和田邦坊を除けば)。ともあれ、この一本目「松竹と、日活」は二十一卷本『直木三十五全集』(改造社、一九三四〜三五年)に未收録、その第二十一卷所收「著作年表」にも記載が無い。死後直ぐ編まれた同時代の全集で、既に初出の場が忘れ去られてゐたのか。
ところが、翌五月號『附録 文藝春秋』所載「倶樂部とメンバー」は全集未收録ながらも「著作年表」に載せて初出誌「文藝春秋(文壇ユーモア)」と記してあるし(但し「メムバー」と誤記、誌名もまだ「文壇ユーモア」でなかった)、これと逆に一九三一年十月號附録所載「休憩と休載」は全集第二十一卷に載録して「(昭和六、十文藝春秋)」と附記まであるのに「著作年表」には記載漏れである。しかるにその間の、一九三一年六月號附録所載「自動車のこと」は、また收録もせず「著作年表」にも缺。或いは一九三三年七月號附録所載「焚書への抗議を嗤ふ」は、第二十一卷所收で末尾に「(文藝春秋)」と附記するも掲載年月號不明、「著作年表」に無し。本誌だけ見て附録まで探らなかったから初出を確認できなかったのだらう。著者切拔きにでも據ったのか、どうも全集編纂に方って、見てゐる號と見てない號とが入り混じってゐたらしい。何か著作の載った號を見つけたら同じ雜誌の前後の號にも目を通して遺漏無きに努めるのは基本であるが、恐らくは怱卒に作ったであらう出版事情を酌んでやるべきか。だが三十餘年を經て、『近代文学研究叢書 第三十六巻』(昭和女子大学近代文化研究所、一九七二年八月)中に新編された「著作年表」(註十八)でも、補はれたのは「焚書への抗議を嗤ふ」の初出年月だけ、それどころか「倶樂部とメンバー」「休憩と休載」を落してゐる。さらに、生誕百年を記念して出た『この人・直木三十五』(鱒書房、一九九一年三月)卷末の尾崎秀樹編「直木三十五年譜」(註十九)は著作年表を兼ねるが、全集からの踏襲で舊態依然、右に摘出した誤脱は補訂されずじまひ。續けて右二十一卷本を複刻した示人社版全集(一九九一年七月)では新たに別卷を附したのに、これの「年譜」も尾崎編で同樣。これらを併せたのが最新の『直木三十五入門』(新風書房、二〇〇五年二月)に收める西村みゆき編「著作年表」(註二十)で、「できる限り原本にあたり加筆訂正を行った」と言ふにも拘らず、「休憩と休載」が追加された以外、依然二篇を缺き、標記も不正確だ。直木三十五といふ作家の人氣は小説以上にこの種の放膽文によるところ大であったのだから、小品と雖も採り零してはいけない。
次いで、一九三一年五月號『附録 文藝春秋』には、徳田秋聲「抗議」が載ってゐる。これは前號附録で秋聲と山田順子の仲を嘲弄した「文壇名流 戀のレビユウ 開幕劇」と題する短い戲曲仕立ての戲文が載ったのに對し、「「文藝春秋」ゴシップ欄で又しても山田に關する私のゴシツプ(?)が出てゐますが」「あゝ云ふふうにさも事實らしく捏造されたのでは、實に迷惑なのです」と訴へ、「やつとあの種のゴシツプから淨められてゐるところ」なので「何とか取消し方法を取つていたゞけたら幸ひだと存じます」と申し立てた苦情文を、そのまま載せたらしい。「さも事實らしく」と言ふがどう見たって拵へ物である他愛ないおふざけだ。そんな瑣細な風評被害にまで躍起となって眞顏で訂正を願ひ出たところに、秋聲老のいかにも苦り切った樣子が浮んできて、可笑しい。順子と別れた反動の「失業状態」から未だ再起ならぬ時期の、一插話ではある。右の抗議文にも懲りずに、同じ號の附録中「文壇新語辭典(二)」には「とくだしゆうせい(徳田秋聲)(名)孫が出來るやうな年になつて急に浮氣がはじまつてなかなかやまないことを云ふ」と立項されてゐるから、なほ可笑しい。一九三一年十月號附録には「徳田丸危ふし」といふ漫畫も載ったり、秋聲は、作品は書けずとも何かと話題の主であった樣子だ。この短文「抗議」は、一九九七年より刊行中の八木書店版『徳田秋聲全集』では年次と分類からして既刊第二期のうち第二十一卷「随筆・評論L 大正15年〜昭和6年」に入るべきものだが、收録漏れである。
右と同じ號の卷頭には、千葉龜雄「ジヤアナリズム無罪」を載せる。續く次號、一九三一年六月號附録『別册 文壇ユウモア』にも、千葉は「商品、廣告」を寄稿した。二篇とも短い雜文に過ぎぬが、當時興ってゐた文學におけるジャーナリズム・コマーシャリズム批判の問題を、この老いざる批評家が新聞人らしい生新な調子で捉へてゐたことが窺へる。どちらも、『千葉亀雄著作集 第五巻』(ゆまに書房、一九九三年六月)所收の福田久賀男による「著作年表」に録されてない。
そのまた同じ一九三一年六月號には、川端康成「菊池・横光・中河」がある。「有憂華」「新刊二つ」と小見出しを立てて、菊池寛『有憂華』、横光利一『機械』・中河與一『ホテルQ』のそれぞれにつき感想を述べてゐる。この時期の川端の關心の在りかを察するには一讀しておいてよい。これは第四次『川端康成全集』(新潮社、一九八〇〜八四年。一九九九年再刊)未收録で、第三十五卷所收「作品年表」にも記載を缺く。研究者の多い川端康成のことだから既に誰か氣づいてゐるのかしれないが、全集完結後から續刊中である川端文学研究会の年報『川端文学への視界』(教育出版センター→銀の鈴社、一九八五年〜)で「研究文献目録」を通覽した限りでは、まだ報告されたことはないやうだ。この「菊池・横光・中河」を見ると、前半の趣旨は、全集第二十四卷收録濟みの隨筆「「有憂華」を讀む」(初出『新愛知』一九三一年五月三十日)の方が詳説してゐるが、當時『文藝春秋』の發賣日が前月十九日頃だったことを考慮すればこちらの執筆が先、原型として對照する興味はある。また後半、特に「後世史家のために一言」として、横光についてよく言はれるポオル・モオランの影響を親しい見聞に基づいて否定した證言は、後世文學史家たる者、うかと看過ごしてはなるまい。
全集に收録されても初出不明だったものもある。ずっと飛ばして一九三三年六月號『附録 文壇ユーモア』の、高橋新吉「詩」。一から四までの番號を振った斷章である。一・二・三はそれぞれ、『高橋新吉全集 J 詩』(青土社、一九八二年七月)に收録する『戯言集』(讀書新聞社、一九三四年三月)の一・三・六に相當し、一のみ文末に異同を見せる。のこる四は最も長い文だが、該當する詩篇は全集に入ってないやうだ。全集の「解題」(一柳喜久子)によれば、『戯言集』は表紙角書に「詩文」と銘打って出されたが著者はそれに不滿だったらしく、本來語録と見るべきだと言ふ。けれども、その一部はこのやうな形で初出されたことがあり、「詩」(といふ題の詩)といふ扱ひで載った。詩文と受け止められたとて強ち無理もないところがある。
最後の、一九三三年七月號『附録 文壇ユーモア』。丸山薫「酒卓の歌」が載った。「A」「B」二篇から成る。前號附録に載った高橋新吉に續く、詩の掲載であった。短いものだから左に全文を掲げておかう。
  酒卓の歌
		       丸 山  薫
 A					
酒を海に抛げ棄てたら
壜は沈まず
波に頬よせ流れて行つた
いつの日詩の翼生やして
雲に啼き掌に歸へり來ん

 B					
帆の卓布
藻の花飾り
貝殼のカツプ飮み干さん
陽の雫 風の雫
滴る鹹き思ひ出の雫
同題の詩は『丸山薫全集 1』(角川書店、一九七六年十月)に收めるものの、Aに相當する「酒卓の歌 J」の初出は季刊『四季』第二號(一九三三年七月)とされてゐる。ほぼ同時にほぼ同文を別の雜誌に載せてゐたわけだが(原稿の二重賣り?)、字句はところどころ違ふ。Bは同じく「K」として全集に載るが「初出誌・年月日未詳」とされ、やはり少々本文に異同が見られる。いづれも先後關係は判じかねるが、推敲過程における異文を成すものだらう。全集完結後の藤本寿彦編『人物書誌大系10 丸山 薫』(日外アソシエーツ、一九八五年五月)でも、これ(ら)については捕捉してない。
以上、氣づいた範圍で佚文を擧げてみた。『文藝春秋』のやうなありふれた雜誌、昭和作家の著作目録などの個人書誌を作成する者ならば必ずや一通りチェックくらゐするであらうもの、それですら、かくも遺漏が見つけられる。これは調査者の怠慢とか未熟とかいふよりは、既に述べたやうな保存上の理由などから、文獻探索における盲點、死角に入ってゐるのではないか。初出が『文藝春秋』何年何月と記してあってさへ、附録に思ひ當らずに本誌記事だけ見てゐては、當該號に見出せぬことだらう。――勿論、稀覯稀少の雜誌を博搜する發掘書誌學も大事だが、それには僥倖か高額の古書價かが求められ、幸福な少數者のみ能く爲し得ることである。むしろ、まづ基本的な文獻を疑問の餘地無きまで精査すること、運も資力も才能も無くても時間と勞力さへ投入すれば誰でも出來ること、謂はゆる「足元の草むしり」から始めることこそ「研究者」の前提である筈。
そんなことは言はれる迄も無く承知の上、恐らく大方はただ、敢へて先の保昌正夫の如くこの『文壇ユウモア』に言及することが無いだけなのかもしれない。例へば、一九三一年七月號『別册 文壇ユウモア』に載った、牧野信一「『風博士』」。無名の新人・坂口安吾を初めて見出した同時代評として重要であり、牧野自身の文章としても輕妙で愉快な一文だ。これは、早くは関井光男が『坂口安吾研究 J』(冬樹社、一九七二年十二月)に再掲し、最新の第三次『牧野信一全集』の第四卷(筑摩書房、二〇〇二年六月)が拔かりなく收録する(なぜか原題の二重鉤括弧は一重にされたが)。とはいへ、死の翌年出た初の全集(全三卷、第一書房、一九三七年)では漏れで、舊に倍する内容となった第二次全集(全三卷、人文書院、一九六二年)にも初め無かったが、その一九七五年再版時に新版第三卷の「補遺」として拾録を見てゐたものだ。第二次以降の牧野全集は保昌正夫が編輯を手傳ったのだから當り前だ、と? それでも第二次初版では漏らしたのだから、これはあまり適例ではないやうである。
ならば他の例を。一九三二年十一月號『附録 文壇ユウモア』所載の尾崎一雄「奈良日記抄――志賀直哉先生のことなど――」はと見れば、ちゃんと『尾崎一雄全集 第九卷』(筑摩書房、一九八三年八月)に「奈良日記抄(一)」として收録濟みである。或いは、一九三三年二月號『附録 文壇ユーモア』卷末に載った深田久彌「仲間」。小見出しに「小林秀雄」とある。この人物スケッチは夙に『論集・小林秀雄 第一巻(大正13年……昭和10年)』第四部「横顔を語る」(麥書房、一九六六年七月)に再録され、續く『書誌 小林秀雄』(圖書新聞社、一九六七年四月)第一部の吉田生編「作品・文献年表」でも「研究資料・参考文献」欄に記載されてゐる。無論、堀込靜香編『人物書誌大系14 深田久弥』(日外アソシエーツ、一九八六年十月)にも。また浦西和彦編『昭和文学年表 第一巻 大正15年〜昭和10年』(明治書院、一九九五年三月)でも、同號の附録卷頭に載った直木三十五「川端康成君に」(註二十一)と共に、採録してある。但し、深田久彌は過ぐる一九三二年十月號『附録 文壇ユウモア』にても同じ「仲間」の題で河上徹太郎・井伏鱒二について書いてゐたのだが、いづれも、その「仲間」初篇は記載してない。寺横武夫「井伏鱒二参考文献年表」(磯貝英夫編『井伏鱒二研究』溪水社、一九八四年七月)の方を見ても、缺。同じ筆者の同じやうな交友記で、對象の知名度には差も無からうに、小林秀雄關係だけ採られるといふ偏重があるわけだ。それに『昭和文学年表』でも、なぜか『文壇ユウモア』から全號通じてその二本だけしか載せてない。
見た通り、必ずしも完備とはゆかない。が、斷片的ではあれ、この附録より拾った前例はあった。默ってゐても、當然、知る人は知ってゐるのだ。さういふ先達たちの仕事を見て後進も默って學ぶことが、期待されてゐたわけだらう。固より『文藝春秋』は求めて得られぬ稀覯の雜誌に非ず。目録から遡って初出誌に當っておけ、さすれば『文壇ユウモア』を知ることあるべし、と。だがそれが、うまく傳はってゐないとしたら……こんな覺書きめいた解題でも無きには優らうか。
さて、ここまで既存の記録に漏れたテクストを抄記してきた。ところで、そも佚文發掘とは何ぞや。埋もれた文獻を、固有名詞に頼り有名性の聯關に依存しながら文學史や全集や作品目録や書誌といった權威有る序列に登記し、これを正典化(canonize)することである。右はいっぱし研究者ぶってその儀式の眞似事をしてみたのみ、樣になってをるまい。何か新出資料を紹介する際、殊に雜誌である場合その目次を誰か知名の作者の固有名を鍵にして手繰り寄せることによって、文獻目録や全集類に採録を逸した文を擧げ、謂はば本篇に組み込むべき補遺(=附録)としての價値を示すのが訴へやすい常道ではある。だが、少なくとも我が『文壇ユウモア』にとってかかる佚文掘出しは餘祿(=附録)で、眞價はそこにはない。否、正典化を待つ佚文とはまた別の意味で、附録性を價値の根柢に置く雜誌だと言ふべきか。……「根源の附録(=代補 supplement)」(デリダ)。

一―四 ゴシップにおける有名性の變容と讀者參加
正味の話が、如上の佚文なぞは『文壇ユウモア』全體から見ればごく一部に過ぎない。細目を見て戴ければ一目瞭然。大半を占めるのは、無署名や、匿名や、或いは本名であれ無名に等しい者たちによる、雜文・ゴシップ・輕評論その他等々々である。從來の雜誌紹介、殊に細目ではなく主要目次に留まるやうな場合には、まづ省略されがちだった項目ども――その意味でも『文壇ユウモア』といふ雜誌内雜誌は、附録を本篇にしたものだった。折角細目を作ってはみたが、かういふ無名性乃至匿名性(anonimity)に充ち滿ちた誌面では、目次といふ題名と執筆者名との羅列に對して、知ってゐる作家の名――著作集が出たり書誌が編まれたりするやうな――を見出すことで讀み解くといふ常套手段は、通用しない。
ただでさへ見立て・うがち・もぢりを驅使して、半創作的な輕文藝とも呼べるものが多いから、題目を見ただけでは内容まで察しがつかない。一例に、一九三一年八月號附録から十月號附録まで設けられた「文壇消息」がある。題からすれば『讀賣新聞』文藝欄「よみうり抄」のやうに作家たちの動向を傳へる短信欄かと見込まれるが、實は大部分が戲文であって眞に受けては馬鹿を見る。少し引いてみよう。「▲谷崎丁未子夫人去月二十日男子出生」(一九三一年八月號附録)とあるのは全く冗談であり、その少し前、去る四月に谷崎潤一郎が急遽再婚した古川丁未子は、それまで文藝春秋社の『婦人サロン』記者で、『文藝春秋』本誌卷末「社中綴方」欄の常連として讀者にもお馴染みだったから、新婚を冷やかしたのだらう(註二十二)。もうちょっと解りやすい所で、「▲里見ク氏 赤坂藝妓學校々長に就任。藝妓倫理學の講義をなす。總論「多情佛心とは何ぞや」に就て」(一九三一年九月號附録)とくれば、里見の花柳界での遊蕩と作中でまごころ哲學を説く癖とにハハアと想到しつつ、作品名を織り込んだ皮肉に一笑するわけだ。或いは「▲中村武羅夫氏「春潮」の編輯者を辭任、月刊雜誌「釣と蓄音機」を創刊定價拾錢。(惡いことが流行してきたものなり)「春潮」よりは賣れる由」(一九三一年十月號附録)とあれば、これは虚報に假託して、中村が近頃『新潮』編輯長の仕事を疎かにして趣味の釣りと蓄音機とに熱中する有樣を揶揄したと解されよう(ついでに十錢雜誌が流行した事實も知られるが)。無論ここに周知の文春派對新潮派の小競り合ひといふ當時の文壇黨派性の現れを認めることもでき、のちに『讀賣新聞』文藝欄の匿名コラム「突撃路」から「「文藝春秋の」ユーモア欄、ユーモアを忘れて新潮派攻撃の泥吐き欄」(一九三二年六月二十三日)と毒突かれたやうなこともあった。が、それは餘談。――とまあ、「文壇消息」と言ってもまづこの調子で、さすがに紛らはしく思はれたのか、一九三一年十一月號からは「ユーモア消息」と改題した。他の記事も概ね同樣の戲文である。
しかしかういふ戲文の中に、時に眞實を穿ったものが含まれるから馬鹿にできない。一九三一年九月號『附録 文壇ユウモア』最終ページは、最上部に「文壇新聞 第一號 昭和六年八月十五日」と記し、全面を新聞風の組體裁にしてパロディー記事六本を載せる。トップは、早大文學士井伏鱒二氏が學位論文「童話文學に對する山椒魚の貢獻」を文藝家協會を通じて提出したが文部省から却下された、といふ記事。なるほど井伏作「山椒魚」の童話性は、論議に値する問題やもしれぬ。しかしそれより興味深いのは下段の「井ノ頭の自殺二つ」といふ記事、特にその二つ目の報。曰く、「十三日午前十時、同じく文士藤澤精藏は、府下井ノ頭公園内の多摩川上水内に投身自殺を遂げた。府中署で檢死したが原因は矢張り原稿が賣れず、それがため借金で首が廻らなくなり下宿を追ひ出され遂に世を果敢なんでの結果と判明」と。勿論これも、貧乏文士を戲畫化して誇張したものだ。ところが人も知る如く藤澤清造は、作品以上に、貧窮の極み野垂れ死んだといふその死に樣によって後世に名を殘すマイナー作家である(註二十三)。實に翌一九三二年の一月二十九日、芝公園にて凍死體が發見され、行路病者として火葬された。圖らずも、末路を豫言するが如き記事ではなかったか。けれど本當に陋巷に窮死されてしまっては、嘘から出た眞實と言ふか、もはや洒落にならない(名の字を變へてあったとはいへ)。死の翌月出た一九三二年三月號『附録 文壇ユウモア』の「ユウモア消息」欄には、「△藤澤清造氏 過般、芝公園に於て悲壯なる最後を遂げたる同氏の爲に、文壇の諸氏はその志をよしとし、文壇葬を行ふことになりし由」と見える。事實、この號が發賣された頃の二月十八日、芝増上寺で葬式が執り行はれた。他の消息が相變らずふざけきった與太を飛ばしてゐる中にこの一段だけ神妙なのは却って笑はせるが、さて半年前のウソ記事を意識したのか、どうか。前者は、粕井均(春日井ひとし)による詳細な「藤澤清造 同時代評・ゴシップ細見」「年譜 著述目録/参考文献目録」(勝井隆則編『藤澤清造貧困小説集』龜鳴屋、二〇〇一年四月)にも、含まれてない(當り前か)。
このやうに、ほじくって見てゆけば見ただけ面白い。それが、うがちといふものだらう。新聞廣告で「一度二度三度讀み返へして更に興深く」(『東京朝日新聞』一九三一年五月二十日附)と觸れ込んだのも、そこだ。讀者は、それぞれどれだけ解讀できるか當時の文壇知識を試驗されてゐるやうなもの。だからこそ目次だけからは判らない。かと言って、一々全部を目次順に要約紹介する暇は無いし、十全に解説し切れる自信も無い。ではいっそ、書いた人の名(執筆者名)ではなく書かれた人の名によって目次に見當をつける手は、どうか。各記事が對象として取り上げた人物名を擧げ、ゴシップや戲評中もぢられたり當てこすられたり仄めかされたりした人びとの名も一覽にする。さらにはそれを登場回數順にしてグラフか番附でも作ってみれば、誰が文壇の人氣者で噂に上ることが多いか、當時の状況が看て取れようか。人氣と言っても必ずしも尊崇ではなく侮りを受けやすい風貌とか嘲弄されるに向いた性格、昨今のお笑ひ業界の用語で「いぢりやすいキャラ」と言ふ奴かもしれないけれども。
近頃マンガ等を評するのに「キャラ立ち」といふ言葉もあるが、人物を區別する「らしさ」がキャラクター(character 特徴・性格)として知れ渡ってそれだけでも自立するやうになれば、あとはキャラクターに合はせて虚構の場面や事件を拵へるのは容易になる。『文壇ユウモア』に登場する文士たちは實在の人間ではあるけれど、メディアの中でキャラクターとして流通してゐるのは物語の作中人物同樣であって、その人物イメージの設定を生かして半ば創作のやうにコントや紙上レビュウ(評論のreviewではなく輕演劇のrevue)や見立て集などの與太咄が書かれてゐると見られる。その種の虚實綯ひ交ぜの好い例が、『文壇ユウモア』の執筆陣に名は見えぬが武野藤介(註二十四)、彼など「實話コント」作家とでも呼べよう。それに、そもそも受容において「このような文壇ゴシップが有効性を発揮するためには、まず何よりも文壇や文学に関する基礎的知識の共有が読み手の側に前提とされなければならない」(前掲、永嶺重敏)(註二十五)。それも、狹い文壇内讀者でなく、廣く社會全般に普及した『文藝春秋』約十八萬部(一九三一年當時)の讀者中において共有される前提知識、である。ここにおいてゴシップといふものは變容しつつあり、『文壇ユウモア』を見ると、最早かつての或る集團内の事情通のみが知る内幕話、知り合ひ同士だけが笑ひ合へる樂屋噺の類ではなくなってきてゐる。
そのことは、『文壇ユウモア』における讀者參加の呼び掛けにも看て取ることができる。これは多少説明が要るだらう。どういふことか。
初めて附録を添へた一九三一年四月號の本誌「編輯後記」で、「讀者諸氏の寄稿も期待して追々いいものにしたい」「新しい同人雜誌の諸氏の寄稿など勿論歡迎する」と言ってゐたのは、既に引いた。以後も、「本欄投稿多數來れど採用すべき傑作なし。掲載の分薄謝を呈す。有名人、無名人奮つて投稿あれ」(一九三二年九月號附録卷頭)とか、「廣く讀者諸氏から文壇ユーモア欄の原稿を募集します」(一九三三年一月號附録卷末)とか、全號を通じて讀者に門戸を開いてゐた。筆者は住所を知らせよと末尾に附記して掲載されたものも二三あり、記事に投書原稿を含むことは疑ひ無い。中でも一九三二年七月號附録では、最末尾一段を費やして、枠線で圍った次の布告があった。
一 言
◇本欄に就いて、各方面で讃辭難詰囂々たるものがあるので、一言編輯部の所信を披瀝しておく。本欄が天下の公器たること勿論である。されば、各位諸賢の寄稿に對し、誌面を提供することに置いては、いささかも吝なるものではない。一黨一派に偏せず、意見發表の機關として、本欄を面目躍如たらしめることが眞意である。しかし、單なる人身の漫罵攻撃は、一切これを採らない。だが、その非難の中に正しきものあれば、發表の機會を與へたい所存だ。本欄が、果して豫期の如く生長して行くか否かは、單へに各位の指導如何によるものである。
附記 誌上匿名は可なるも、編輯部までに本名住所を報知されたく、また原稿の取捨選擇その他の事項、之亦一任されたい。
匿名批評欄としての好戰的な側面が取沙汰されたのに應へた辯明だらうが、ここでは、編輯者が依頼して意を體した文を書かせるのでなく自主的な寄稿が建て前となってゐることを讀み取っておく。
これらを、しばしば引かれて有名な菊池寛による『文藝春秋』「創刊の辭」と照らし合せてみよう。
私は頼まれて物を云ふことに飽いた。自分で、考へてゐることを、讀者や編輯者に氣兼なしに、自由な心持で云つて見たい。友人にも私と同感の人々が多いだらう。又、私が知つてゐる若い人達には、物が云ひたくて、ウヅしてゐる人が多い。一には、自分のため、一には他のため、この小雜誌を出すことにした[。]
つまり依頼原稿ではなく自分から執筆した文章で、思ふことを思ふままに述べてゆかう、といふ精神である。そしてその編輯方針は他の「友人」「若い人達」にも及ぼされる。と、ここでもまた『文壇ユウモア』は『文藝春秋』創刊當初の志を繼ぐ者ではなかったか――それも、擴張した形で。
勿論、『文藝春秋』創刊時に菊池寛の念頭にあった寄稿者は作家同士や若い作家の卵たちといった文壇の範圍内であって、一般讀者は含まれてなかったらう。「創刊當時の氣持は、自由な放言の機關を持ちたいためと、當時無名であつた若い連中の發表機關たらしめるためもあつた」(前掲、菊池寛「十五周年に際して」)。そんな氣紛れに始めた「菊池の「私」雑誌、内輪雑誌ともみられる」(保昌正夫)小誌が、しかし、忽ち豫期を超えた大當りを見せ、廣汎な中間的讀者層を獲得してしまった。それは『文壇ユウモア』とても「新しい同人雜誌の諸氏」といった文壇豫備軍の寄稿をアテにしてゐた樣子だけれど、と共に、必ずしも作家志望ではない文學好きの讀者に對してまで廣く執筆者を求めてゐた。「讀者と共に編輯するのは記者の欣快」(前掲一九三一年五月號「編輯後記」)と見得を切ったのは、お世辭ばかりではあるまい。そこがゴシップと言っても、初期『文藝春秋』とは違ってきてゐる。幾ら再現しようとても、既に文藝誌から一般綜合誌へと展開してゐた『文藝春秋』において、最早單なる創始期の反復ではあり得ない。
すなはちゴシップとは元は事情に精通した文壇内部の人間が漏らす裏話であるはずだが、それが、文壇外の讀者どもの投稿に半ばは委ねられるのだから、考へてみれば不可しい。中山昭彦によれば、そもそもゴシップ欄が新聞各紙に開設され出すのは一九〇七(明治四十)年前後のこと。既存の「よみうり抄」のやうな純粹な消息欄とは別にゴシップ性を備へた短信欄が出て來たが、そのうち『萬朝報』「文界短信」や『國民新聞』「文藝界消息」では投書欄を兼ねてゐたものの、やはりその一般には知り得ない内容であることからして「投書が一般読者からもたらされたものかどうかについては、かなりの疑問が残る」し、「この欄が事情通から送られた投書ばかりを採用しているか、或いは事情通から仕入れた情報を記者が投書家を装って書いているといった事態」が推測される(註二十六)。取分け後者『國民新聞』については金子明雄が、「実名による投書でない以上[……]投書の書き手を推測することは困難」としながらも、「はっきりしていることは、「文芸界消息」が制度的に定着し、文学関係の情報の配置が安定してくるにつれて、文芸界の内部情報、誰が何を書いているか、どの雑誌に何が載るか、誰が誰と親しいか、どの小説のモデルは誰かなどに詳しい文学界インサイダーが「文芸界消息」の近辺に集まり、その種の情報に接することのできない一般読者が排除されたということである。一般読者の声は文芸欄ではなく社会面に廻される」と斷じてゐる。そしてこの出發期の新聞ゴシップ欄が投稿といふ形式を採ることがあったのは、ゴシップが「特定個人を発信者とする伝聞情報」といふ「ルポルタージュの言説の構成」であったからだ、と(註二十七)。謂はば「我知る、故に我語る」であり、この特權化の對面に、無知なる一般讀者が配置されていった――。
これが、ゴシップ短信欄が初めて成立した時期の出來事であるなら、四半世紀後、それらゴシップ欄の末裔である『文壇ユウモア』にあっては逆向きの事態が生じてゐた。蓮實重彦に藉口すれば、「近代的な意味でほぼ確立したといってよいジャーナリズムとは、[……]「私は知っている、故に私は語ることができる」という説話論的な特権意識の希薄化の上に築かれてきたものだからである。「私は知っている、あなたもそれを知っている、だから、そのことを語ろうではないか」というのが、いわゆる新聞論調の基盤なのである」(註二十八)。さう、皆さんご存知でせう、アレですよ……と。讀者間の既知を増幅する語り。その意味での近代ジャーナリズム的顛倒の構造が、『文壇ユウモア』の時代、やうやく表面に露呈しつつあった。正に「ジャーナリズム」といふ語彙そのものが、日本では當時一九三〇年から誰もが口にするほど流行し、論壇文壇で反復される問題となってもゐた(註二十九)。
實際『文壇ユウモア』では、内情に詳しい者だけが知る未知の新情報を知らせるといふより、愛讀者なら或る程度既知である人物表象をなぞって當て嵌めた寓言諷喩や見立てが主なのであり、それゆゑ文學知識が豐富で小才の利く者であれば文壇人でなくとも書き得る。作品化した輕文藝としてゴシップ記事を創ること。それは初め直木三十五らが書きまくった時は獨特斬新で、「ヂヤーナリズムにゴシツプの愛嬌を導入したのも本誌だ。[……]「××見立て」とか「××替歌」とか云つた風な趣向で社中の動靜を象徴的に表現したものなどは、文藝雜誌の埋草としても上乘なるものであった」と愛讀者から回顧され(註三十)、在來の單純無邪氣なゴシップに「深刻惡辣な社會性と批評を加味して、一種の文學形式として文壇に流行させた」(傍點は引用者による)と村松梢風(註三十一)に評される通りだが、十年經てば、それも模倣可能ないいお手本だ。
斯くてゴシップは變容しつつあった――とはいへ、まだ『文壇ユウモア』では樂屋落ちのやうな内に閉ぢた趣きもある。他紙の匿名批評子が「惡口を云つて損をしない仲間だけをやつゝける氣風が君たちの間にないだらうか」(日比谷雀「笑はせつこなし」『讀賣新聞』一九三二年六月四日「文藝直言」)と反駁したのは、口惜し紛れにせよ、一面を突いてはゐる。例へば『カフエ通』(〈通叢書〉四六書院、一九三〇年一月)の著者である酒井眞人の如き、『文藝春秋』とは初期編輯同人以來の縁こそあれ文學者としては芽が出ずじまひで無名作家以前といってよい存在も、度々ゴシップ種に登場する。同樣に散見される近藤經一も、元『白樺』同人だがもはや作家といへず殆ど文藝春秋社重役としてのみ知名度を保ってゐた人物だ(註三十二)。身内の頻出は、いかにも社内の者で書いた内輪受け止まりの觀がある。「結局のところ、あの欄はあの社の低級社員や、まはりにたかつた能なし仲間の失業救濟みたいなもんぢやないか」(日比谷雀「笑はせつこなし」)と腐されるのも故無しとしない。けれども『文藝春秋』には一九二六年十月號新設の「社中偶語」を繼いで一九二八年二月號以來今日まで續く「社中日記」欄があって、「社中綴り方」と併せて社内の動靜・人間模樣をあけすけに公開し、アット・ホームな親しみを釀して讀者に喜ばれてゐたから、本來黒衣役の編輯者らといへども愛讀者にはそれなりに名前とキャラクターが浸透してをり、讀者を疑似共同態に卷き込む迄に「内輪」の範圍を擴大してゐたと見てもよい。現在の「社中日記」を評して、今や大會社となって家族共同體的な雰圍氣は形骸化したのに「多くは強引に創作されたエピソードを面白がっているふりをして、お互いに馴れ合っている」(註三十三)といふのは、既に戰前から或る程度は當て嵌まることでないか。創作された共同體といふ意味では、「文壇」もまた……。

一―五 投書雜誌、十五錢雜誌の系脈――『文藝通信』その他へ
以上、文壇ゴシップ誌としての面を點綴したが、これを承け繼いで發展させた系譜がある。『文壇ユウモア』そのものは『文藝春秋』一九三三年七月號迄で止んだ。翌八月號では何ら豫告も無く消え去り、本誌「編輯後記」末尾に次の斷りが入った。
◇今月は、ユーモア欄を除いた。が、これは、この欄を撤廢したのではなく、來月號より、趣向と献立を一新して、フレツシユな内容のもとに、諸賢に見えんがためだ。心して、待たれよ。
隨分と氣を持たせてくれるが、來月號といふ九月號を見ても、そのまた來月の十月號になっても、遂に『附録 文壇ユーモア』は復活せず、誌上には約束違反への辯明一つすら見當たらなかった。……だが、その代りなのだらう、文藝春秋社では新雜誌『文藝通信』を一九三三年十月號より創刊した。定價十五錢、毎號六十四ページ、永井龍男編輯(註三十四)。これぞ、『文壇ユウモア』の後繼誌と見たい。雜誌内雜誌として出發した別册・附録が、眞に雜誌として獨立創刊されるに至ったわけである。
これまで月刊『文藝通信』に就て書かれたものでは小田切進による、『現代日本文芸総覧 下巻』(明治文献、一九七二年四月)で細目を載せた時の解題と、複刻版の別册『文藝通信総目次・執筆者索引』(日本近代文学館/八木書店、一九九二年五月)に寄せた解説とが、最も詳しい。ところが『文藝春秋』本誌の附録だった『文壇ユウモア』を前身とすることに就ては、一言も無い。しかしいやしくも商業雜誌が何の前觸れも無くいきなり創刊されるなんて怪しむべきことの筈。そこで『文藝春秋』に當ってみれば附録の存在に氣づくだらうし、休止と創刊の時期が引き續くのみならず、ゴシップ・雜文を中心とする誌面の似通ふ傾向からして繼承發展と見るのが自然である。かういふ創刊事情と系統とを指摘しなくては雜誌解題として疎漏だらう。
たしかに『文藝春秋』にも『文藝通信』にも、『文壇ユウモア』との關係を編輯側が公言した通知は無い(註三十五)。けれども同時代讀者の眼にはおよそ自明に屬したと思はれ、傍證もある。『文藝春秋』一九三三年十二月號に掲載されたKKK「文運復興第一線」。この匿名時評は、同時期に續々創刊された文藝雜誌群から『文學界』(文化公論社)・『行動』(紀伊國屋書店)・『文藝』(改造社)・『新人』(新人社)を品隲し、最後に『文藝通信』に觸れてかう述べてゐる。「「文藝通信」は、「文藝春秋」の附録であつたものを擴大した、文壇風聞録であり。ゴシツプ屋、惡口屋の倶樂部なんだらう」……。「なんだらう」とはまた曖昧、恐らく外部に依頼した原稿ゆゑでもあらうが、しかし「「文藝春秋」の附録であつたものを擴大」と目した言が他ならぬ『文藝春秋』に載せられたのだから、殆ど編輯部も認めて保證したやうなものだ。
また『東京朝日新聞』一九三三年十月十一日附の匿名雜誌月評「豆戰艦 十月の雜誌評――(7)――」でも、『文學界』『行動』に續けて『文藝通信』を取り上げた。曰く、「「文藝通信」はゴシツプと惡罵で出立した昔の「文藝春秋」の故智を學んだもの。その態度の好いかわるいかは別問題として、とにかくヂヤーナリステイツクに腰がすわつてゐる。」「アクドすぎるといふものもあるが、」……云々。出發期『文藝春秋』の魅力ある惡ふざけっぷりを再生させるといふこと(註三十六)では、ここまで見てきた附録企劃『文壇ユウモア』と目指すところ全く一致する。初期『文藝春秋』から『文藝通信』への間を繋ぐ中繼ぎが『文壇ユウモア』、といふところだ。且つこの「豆戰艦」欄の署名は氷川烈、すなはち杉山平助の匿名であり、先に引いた「「文藝春秋」今昔」で最初『附録 文藝春秋』が出た時に一番にこれを評價した筆者である。初期『文藝春秋』・附録『文壇ユウモア』・『文藝通信』の三者を貫く脈絡は、見落としやうがない。
一九三三(昭和八)年秋からの謂はゆる文藝復興期に簇生した文藝誌の中で、『文學界』『文藝』等に較べて『文藝通信』は輕い扱ひを受けてゐるやうだけれども、むしろその輕快輕妙軽薄をこそ重んずべき雜誌であり、誌面に溢れる「文壇史そのものを読んでいるおもしろさ」(小田切進)を味はっておくのは「昭和十年前後」の文學を論じる前提だとさへ思ふ。そして『文藝通信』を論ずるには、必ずや、初期『文藝春秋』から『文壇ユウモア』に至る文藝春秋社の榮えある雜文・ゴシップの傳統を踏まへた上でなければなるまい(本稿が、それに資するあらんことを)。特筆すべきことに、同誌もまた讀者參加に意を用ゐ、創刊號から「原稿募集」を掲げて「「文藝通信」は諸君が編輯する雜誌だ」と投書を呼び掛けた。つまり投書雜誌といふ側面もあって、文學青年を讀者對象とする以上、文壇知識を授けてくれる情報誌だったわけだが、逆に、既に流通したその知識を饋還して半創作的なゴシップの執筆に文才を揮ふ投稿者もゐたと見受けられる。「投稿規定」の「種別」には、「創作、論文、雜文」とあった(第二號以降最終ページ)。明治大正期の投書雑誌の如く小品文や敍事文ではなく、「雜文」が入ってきてゐることに注意されたい。
一九三七年三月號で『文藝通信』は終刊し、前年七月號以降文圃堂(文學界社)から文藝春秋社に發行所を移してゐた『文學界』に吸收合併されてしまった。さうでなくとも、この年七月に始まった支那事變以降の言論統制時代に入っては、「氣兼なしに、自由な心持で云つて見たい」(前掲『文藝春秋』「創刊の辭」)なんて構への雜誌はどうせやってゆけなかったらう。しかし他方でこの『文壇ユウモア』の流れには、文藝春秋社とは別に一脈通じた系譜の雜誌もあった。投書雜誌であり文壇ゴシップが豐富で雜文・小品の扱ひに長じた――すなはち一九三五年三月號創刊の『月刊文章講座』、翌三六年一月號より改題『月刊文章』である。厚生閣發行、前本一男編輯、定價十五錢。
この『月刊文章』に就ては、留意する者はあっても(註三十七)紹介はなされてをらず、終刊まで全號揃へるのが困難なこともあって今後の課題だが、「小さい記事ほど重視する これ本誌の編輯方針だ」(創刊號「編輯後記」)と揚言するだけあって雜文雜報の類を埋め草に至るまでよく生かしてあるのは見事で、隅々まで讀みでがある。殊に管見ながら、一九三〇年代の匿名批評を調査する過程で通覽して得るものが多く、論文(註十三前掲)で參照させて貰った。
編輯人自身が同誌を位置づけた言には、「所謂十五錢雜誌の型を破つた充實清新の内容」(創刊號「編輯後記」)とか「遂に十五錢雜誌の王座を築くに至つた」(一九三五年十一月號「編輯後記」)とか見え、今日知られぬ「十五錢雜誌」と呼ばれるジャンルが當時あったことは興味深い。安さに着目した分類呼稱だが、『文藝通信』が同じく定價十五錢の小雜誌であったこと、遡れば『文藝春秋』もまた定價十錢(五錢の差は物價上昇分か)の廉價主義で創めたことや、當初から『文壇ユウモア』が「獨立した十錢位の雜誌にしても賣れるよ」と言はれてゐたこと(前掲『文藝春秋』一九三一年五月號「編輯後記」)を聯想させる。加へて、『文藝通信』が創刊前の紹介で「厚さは『セルパン』程度」(無署名「文春の「文藝通信」」『讀賣新聞』一九三三年九月二日「展望臺」)と比量されてゐたその『セルパン』(第一書房、一九三一年五月號〜)が、やはり「十錢雜誌」と廣告に謳って創刊され、六十四ページの薄册による小體な清新味を出して人氣だったこと(註三十八)、或いは、伊藤整を中心とする同人誌ながら表紙に「定價十錢」と銘打って創刊された短文滿載の批評雜誌『文藝レビユー』(文藝レビユー社、一九二九年三月號〜一九三一年一月號)や、その發行者・河原直一郎がのち『セルパン』の編輯に從事したと言はれること(註三十九)等を想ひ合はせると、内容・形式と相俟って、或る系譜が浮んでくる。
猶また『月刊文章』の原稿募集では、選者をつけて懸賞發表するやうな「散文」「詩」「短歌」といった昔ながらの投書雜誌式の創作ものと同時に、「讀物」「記事」を募集してをり、その具體的な内譯には「ゴシツプ・近代的笑話」さへ含まれてゐる(一九三八年五月號「原稿募集」等)。このことは、既に述べてきた、文壇外の一般讀者によるゴシップ創作の投稿といふ顛倒した事態の證左として檢討に値する。
投書雜誌は、『文章世界』(博文館)が一九二〇(大正九)年十二月號で休刊して凋落に向かひ、『文章倶樂部』(新潮社)が一九二九年四月號で終刊したのを最後に、往年の勢ひは失せた感がある。かういふ名高い投稿誌の終焉は目立つが、しかし、『文藝通報』『詩と人生』『現代文藝』『文學世界』等のマイナーな投書雜誌を掘り出してきた曾根博義は、「以後は投書雑誌がなくなって職業作家の作品だけが載る商業雑誌の時代になったとか、投書雑誌の代りに同人雑誌全盛の時代になったとかとは、必ずしも簡単に言えない」と注意する(註四十)。いかにも。――但し、その言は昭和作家の文學的前歴を搜る關心から出てをり、後年作家として名を成す文學者の出發期における習作類を、顧みて見出さうとするもの。專ら佚文發掘作業の一環とする傾きがある。これに對して雜文・ゴシップのやうな「讀物」を投稿する書き手は、いくら輕妙至極に書けても藝術家に列聖されることなく、投稿が「作家」への道につながらない。永遠に無名のまま埋もれゆくだらう。投書雜誌が滅し去ったわけでないのは確かにその通り、現に『文藝通信』『月刊文章』にも見る如くであるが(註四十一)、やはりそれは變質してゐる。作家を目指しながらも結果的になりそこねる投稿青年たちが讀者の主體ではなく、最初から作家になど行き着かぬ在り方の一般文學愛好者にまで讀者層は擴がってゐた。前本一男は『月刊文章講座』一九三五年八月號「編輯後記」に、懸賞原稿が殺到するのを喜びながら「所謂投書家といふ人々よりは寧ろ一般インテリ層に屬する人々の投稿が多く」……と漏らしてゐる。
また元來、投書雜誌は文壇ゴシップの繁茂する場でもあった。投書雜誌に就て曾根博義は、「投稿欄だけをどんなに充実させても、それだけでは読者はつかない。[……]文学知識、文壇情報、ゴシップ等を掲載することによって、あたかも一流の文壇雑誌のように見せかけ、読者、投稿者も彼らと同じ文壇の仲間だという意識(錯覚)をあたえなければならない」と指摘する。だがその「作家と読者で形成する文壇共同体の一員という意識」は、大正末に大宅壯一が「文壇ギルドの解體」(註四十二)と言った意味ではジャーナリズムの裡に擴散解消されつつあり、そのジャーナリズムによって疑似的に共同體の輪廓を形成するやうになっていったのが昭和期の文壇である。屡々「新潮」派と言ひ「文春」派と云ふ、その名稱からして既に出版資本に基づくグループ編制であった。さらに大宅壯一が(時には富田彌郎の匿名で)ゴシップ・メーカーとして活躍した『文學時代』(新潮社、一九二九年五月號〜一九三二年七月號)は、尖端的モダニズムの傾向を受けつつ通俗大衆性を持った文藝綜合誌と目されるが、周知の如く投書雜誌『文章倶樂部』の改題新創刊であって、文壇案内を務める役割は變らぬ以上、そこでもゴシップや雜文・輕評論が豐富であった。この短文を生かしたジャーナリスティックな誌面作りは、同時期の文藝誌では『近代生活』(近代生活社、一九二九年四月號〜一九三二年八月號)に相通ずる。共に、新興藝術派との關聯で語られがちだが、流派で分けるのは文學史の固定觀念に囚はれすぎで、讀者はそこから逸脱した雜文雜誌としての興味に惹かれるのだし、また兩誌は期せずして創刊終刊もほぼ同時、後半は『文壇ユウモア』(一九三一年四月號〜一九三三年八月號)の刊行期に重なる。すなはち『文壇ユウモア』は草創期『文藝春秋』の復興であると同時に、再編される文壇意識を反映して變容しつつあった雜文・ゴシップの系譜を、新潮社系の『文學時代』や『近代生活』等から半ば時期をずらして受け止めながら、次代の『文藝通信』『月刊文章』等へとバトン・タッチする位置にあった。
眞に『文壇ユウモア』を評價するためには、これら諸系列の絡み合ひを解きほぐし、前後に類似する系譜の中で比較對照することで、通底と變遷とを見極める必要がある。ここに記した程度では素描に過ぎまい、まだ『文藝公論』もあれば『不同調』『文藝日本』もある。雜誌全體でなくゴシップ・雜文欄のみに絞って辿れば他にも見るべきものはあり、新聞文藝欄もある……。なほ博雅の士の御示教御攻究を待ちたい。從來の文學史からすれば傍系だけれども、圖と地を反轉させれば顏が見えてくるルビンの壺のやうに、文壇といふ主流を枠取る地の部分に注目することにより伏在する形が發見できよう。

一―六 匿名批評――無名性の佚文
他誌との聯關に筆が逸れたが、再び『文壇ユウモア』の内容に戻らう。先の佚文發掘は有名性に依存した正典化であること、述べた通り。ところがゴシップもまた既知の有名人に關はればこそ流通しゆく情報であり、逆の方向から「固-有名」(赤間啓之(註四十三))を補完するものだらう。であるからには、却って、さうした正典化からも外れ、永遠に捉へどころ無く散佚つづけるかのやうな雜文群こそは、眞の意味で佚文と評せないか。軼事逸言を記す佚遊佚樂の文、といふ意味でも……。
有名性を逸脱する根源的な佚文といふ意味では、特に、匿名批評といふものがある。「匿名批評は、匿名であるということで、「有名人」としての虚名を必要としない。それが一番近しい批評の形式は「投書」というジャンルである」(山口功二「マス・ジャーナリズムとしての批評」(註四十四))。『文壇ユウモア』の各號記事を匿名批評との關係で逐ってゆくと、格別の興趣がある。この時期、一九三〇年代は匿名批評の時代とも稱されるほどであった。このことは拙稿「一九三〇年代匿名批評の接線――杉山平助とジャーナリズムをめぐる試論」(註十三前掲)で展望したが、なほ論ずる餘地が多い。杉山平助は、一九三一年十二月開始の『東京朝日新聞』の「豆戰艦」といふ月々の匿名短評欄を執筆することで、無名作家から著名な人氣評論家になったといふ經歴を持つ。匿名によって盛名を馳せたといふ逆説性が興味深い。最も活躍して文壇内外に杉山の名が知れ渡ったのは一九三三年のことである。つまり、『文壇ユウモア』の刊行期である一九三一年四月から一九三三年七月はその間にほぼ重なる。この「豆戰艦」の成功を機に、一九三〇年代、各紙誌に匿名批評欄が常設されるに至った。匿名批評史から見れば、隆盛期を迎へる前の勃興期に當たる。
氷川烈といふ匿名で書いた「豆戰艦」では、一度『文壇ユウモア』が取り上げられてゐる。杉山平助が最初に『附録 文藝春秋』を論評した時に「この計畫の今後の變遷を注目しつゞけたいと思ふ」と結んだのを、一往、有言實行したわけだ。すなはち一九三二年六月三日附『東京朝日新聞』「豆戰艦 六月の雜誌」の「文藝春秋」の回。その末尾に曰く――
付録文壇ユウモアは、陽氣の加減かユウモアが漫罵に變質しただけに、見てくれの景氣はよくなつた。が、いづれを見ても、ドタバタ足の百姓劍術で、劍尖の鈍さは齒がゆいばかり。これぢァ、人は斬れねえよ。
と、それこそつまらぬ漫罵みたいだが、これは、俺なら見事斬ってみせようぞといふ意味なので、謂はば伎癢の嘆、氷川烈の聲名愈々高まる中での、匿名批評家としての自信が言はせてゐる。その後、氷川烈=杉山平助は『文壇ユウモア』に乘り込んで實行してもみせたから、乃公出でずんばの意氣は口だけでなかった。
ここで「豆戰艦」に斬られたのは一九三二年六月號附録だが、その前月、五月號附録から『文壇ユウモア』はやや刷新されつつあった。零陰棒・愚利留・大阪宗太を名乘る三名の參入により、幾らか長目の、評論に近い雜文が出て來てゐる。これらの匿名は、當時文藝春秋が本社を置いた大阪ビル(麹町區内幸町)の地下にレインボー・グリルがあって、社に集まる文筆人のサロンとして、時に「社中日記」欄が綴る插話の舞臺ともなって、知られてゐたのに因む。恐らく編輯部の意嚮が働いて、やうやくゴシップ見立ての類がダレて飽きられさうになってきたのに、梃子入れをしたのだらう。これに先立って、一九三二年四月八日附『讀賣新聞』の匿名批評欄「突撃路」でも、加浦根を名乘る匿名子から雜誌附録を難じたついでに批判があった。
近ごろヂヤアナリズムの上でみじめなのは「文藝春秋」の「文壇ユウモア」とかいふ付録のあるかないかの生存をつゞけてゐることだ。
あんな氣の拔けたビールみたいな阿呆の屁のやうなゴシツプかチヨボクレみたいなものしかかけないとすればこの社の才人ぞろひといふ定評も怪しいもんだぜ。
憎まれ口とはいへ、この頃『文壇ユウモア』が次第に沈滯氣味だったのは同感だ。右の寸評に刺戟されての賦活劑かどうかは判らぬが、どのみち「考へてゐることを[……]氣兼なしに、自由な心持で云つて見た」くとも實名ではツイ遠慮が入るもの、匿名による批評となるのは自然の推移であったかもしれない。
これ以降、後半期の『文壇ユウモア』は、ゴシップ戲文集としてよりも自由意見を掲げた匿名批評欄としての性格を強く打ち出す。初期にも一九三一年五月號〜六月號附録に夜光蟲「斬人斬馬劍」のやうな扱き下ろした調子の匿名短評が載りはしたが、散發的に過ぎた。今度は複數名が三、四回に亙り持續したし、それが話題を喚んだことは、先に全文を引いた三二年七月號附録卷末の「一言」と題する編輯部からの告知によっても判る。これが呼び水となったか、後を承ける新たな寄稿者も現れて誌面が活氣づいてきた。杉山平助も亦、自分への批判に應酬し、本名でも、本名以上に有名だった氷川烈といふ匿名でも、投稿してゐる。直木三十五も戻ってきて、杉山とも火花を散らしてゐるのは面白い。新舊匿名批評家の雄の對決である。
少し細かく見てゆかう。まづ一九三二年六月號附録掲載の火川裂「爆藥筒」は、無論、氷川烈をもぢった匿名である。その文中にも次の通り「豆戰艦」が出て來て、盛名の程が知れる。
第一書房店主長谷川巳之吉大人豆戰艦で、セルパンをやられた腹癒せに、朝日紙に絶對廣告を出さぬとねぢこんだのは大人げない。第一豆戰艦の筆者なんて社外の猛者ぞろひ。大きく「御希望に添ひませう」と廣告した方が氣がきいてる。まあまあと頭を下げた朝日の廣告部の言分も分るが、「ぢや止して貰ひませう」と出た方が權威があつてよろしい。
ここではまだ「豆戰艦」の筆者が杉山平助だと知られてないかのやうで、後の方で「杉山平助、河上徹太郎共に調子を下し初めたのは遺憾」等と記してもゐるが、ひょっとしたらこの火川裂は氷川烈自身が筆者でとぼけてゐる可能性もある(匿名の匿名?)。
それはさておき、雜誌月評が物議を釀して廣告主から壓力を受けるに至ったとは、批評の自立性に關はる面白い問題である。確かに「豆戰艦」は『セルパン』を取り上げたことがあり、一九三一年十二月二十七日附で「見かけはなかなかシツクだが内容は「古東多万」とともに雜誌の榮養不良ぶりの好適例」と評してゐたが、以後の『セルパン』誌の卷末「社中偶語」を通覽した限りではこの問題は言及されてなく、ここで觸れられなかったら表に出ずにしまった事件かもしれない。同じ頃『文藝春秋』一九三二年七月號の無署名時評欄「文藝春秋」が、「文壇に匿名欄の辻斬り横行す」る理由を問うて「一に曰く、出版資本の強壓力である。この資本を圍繞する一部の不心得なる編輯者の情實根性である」と喝破してゐる。當時、匿名批評は出版・編輯批評であり、ジャーナリズム批評でもあった。事實その後、これに似て、より大きな紛爭が陰で進行した。一九三二年十一月中旬、いつもなら各新聞に十二月號の雜誌廣告が出るところが、『東京朝日新聞』だけ他紙より遲れて掲載された。「豆戰艦」の俎上に上せられてきた雜誌出版社が廣告出稿ボイコットを起したのによる(註四十五)。これに先立ち杉山平助の代表的な評論「批評の敗北」(初出『讀賣新聞』一九三一年十月十七日・二十二日・二十三日文藝欄)(註四十六)は、あたかも事件を豫期した如く、商品化した批評が出版資本に屈した現状を説いてをり、ただ讀むと一般論に見えるが、これら具體例と共に解すると中々意義深い。
次なる號、一九三二年七月號附録を見ると、杉山平助が「零陰棒先生へ」を投じてゐる。零陰棒「文藝苦言」が前號で杉山も貶したのに、應酬したもの。ところがこの七月號附録での零陰棒は、正體を知ってか知らずにか、今度は「豆戰艦」に文句をつけてゐる。「天下の朝日新聞が文藝欄で氷川烈といふオケラを起用したことは編輯氏の種切れから思ひ餘つてのことだらう。」「君の新聞社に起用された特長で、且つ君の批評のつまらなさは君の常識圓滿さだ」……云々。これには『文壇ユウモア』の外で反應があった。翌月、『文藝春秋』三二年八月號の「文藝春秋」欄である。そこでは齋藤茂吉「瘋癲と文學」(初出『東京朝日新聞』一九三二年六月二十〜二十二日)を枕に、病的異常者が傑作を生まぬことや、常識の輕侮すべからざる所以をひとしきり説いたあと、「しかるに滑稽なるは本誌前號のユウモア欄に於て、零陰棒と稱する匿名無智の輩が、廣汎なる雜誌批評を擔當する氷川烈なる者を、その圓滿なる常識性によつて嘲つてゐることだ」と鉾先を向けた。實は、後に知られるやうになるが、この匿名欄「文藝春秋」もまた杉山平助が筆者であった。一九二八年秋以來の擔當であるらしい(註四十七)。杉山は「文藝春秋」欄に毎月書いた時評を自著に順次収めてをり、この常識談議は『氷河のあくび』(日本評論社、一九三四年十二月)の「續文壇從軍記」中「昭和七年」に「二〇 ふうてん・天才・ポンサンス」と題して再録されたが、末尾の零陰棒と氷川烈に觸れた段は削除されてゐる。自己への言及が決まり惡くなったのか。ともあれ初出誌を辿ることで、しばしば常識家呼ばはりされた杉山平助が却って常識論について一家言を誇るに至ったのも、かうした問答を經た中でだったと判る。
この號から中井鐵といふ筆者が現れた。七月號附録に「處士横議」、九月號附録に「文藝欄は何處へ行く」、十月號附録に「有名と無名と」、と續けて時評を寄稿してゐる。同じくまた、八月號附録に「G・P・Uに物を訊く座談會」、十月號附録に「雜文」が載った藤崎寛など、どうやら常連投稿者がゐたらしい。先の大阪宗太らは『文壇ユウモア』が面目を一新したと見るや登場しなくなったが、代って甲論乙駁する處士が參加して活況を呈してきた。署名だけではどこの誰とも知られぬ無名人で、恐らく當時の文學青年だらう。幾らか名のあるところで、藏原伸二郎(一九三二年八月號附録)、雅川滉(=成瀬正勝、三二年九月號附録)、深田久彌(三二年十月號附録・三三年二月號附録)、今井達夫(三二年十月號附録)、石濱金作(三二年十一月號附録・三三年六月號附録)、尾崎一雄(三二年十一月號附録)、立野信之(三三年四月號附録)といった執筆者も誌面に交へるものの、殆どは當時よくてまだ新人といったところで花を添へる程のネーム・ヴァリューも無く、九ヶ月振りに戻ってきて一九三三年一月號から連續三本を投じた直木三十五だけが別格の大家である。加へても精々、高田保(三三年七月號附録。三一年十二月號附録にも)や辰野九紫(三三年六月號附録)くらゐが一般に知られた作家だったか。そもそも驅出しの新人作家と無名の投稿者との境界は必ずしも分明でない。ゴシップで取沙汰される有名人士に對して匿名無名の存在があるわけだが、兩者の中間にある者を見ておかう。
中野晴介といふ署名が二度現れる(三二年十月號附録・三三年一月號附録)。無論、文學史や人名事典類には見かけない名前だ。しかし書誌に關心ある者ならば、或いは記憶があるかしれない。といふのは、天野敬太郎編「雑誌新聞解題の案内」(『日本古書通信』一九六六年十一月號〜七八年五月號連載→『雑誌新聞文献事典』金沢文圃閣、一九九九年九月)に、しばしば中野晴介著・刊『日本近代の文学雑誌』といふ書目が擧がってゐるからだ。同書は天野敬太郎によれば一九五五年十一月頃の刊行らしいが奧附刊記の無い謄寫版册子で、他に中野はやはり孔版で『明治大正飜訳文学綜覧』(多摩文庫、一九五三年十月)も出してをり、そこでは中野愚堂と署名する。といって、戦後の中野が特に近代文學書誌に志したといふわけでもない。愚堂中野晴介の生涯は、遺著『かの子観音』(岡本かの子文学碑建設委員会、一九六二年十月、非賣品)卷末の三輪全竜「著者小伝」に記されてゐる。それによると、中野は一九一〇年香川縣生、幼名一、上京して一九二八年四月東洋大學に入った。以後「同志とプロ文学を語り同人誌「詩集」を主宰しペンネーム晴介と号す」。就中注目されるのは、「その頃「紀伊国屋月報」に十返肇などと、マルクス主義文学論争の花を咲かせた。」「「紀伊国屋月報」を鉄道各駅頭で売るため著者は箱乗りをつづけた」とある所。『紀伊國屋月報』(紀伊國屋書店、一九三一年二月號創刊)とは、後に『レセンゾ』『レツェンゾ』と改題したモダンな書評雜誌として知る人ぞ知る(註四十八)。『レツェンゾ』一九三三年十月號・十一月號には中野晴介の時評的小文が見出せるが(九月號にも載ったらしいが未見。以上、曾根博義氏の御示教を得た)、若くして編輯に加はった十返肇(當時は十返一、同じく香川出身)の周邊にさうした名も傳はらぬ青年達が集ってゐたことは想像に難くない。のち中野は、大學を卒へて勤めた出版社で縁を持った中根環堂により「アナーキスト晴介が観音信仰に導入されていった」。すると愚堂は僧名か。中根の招きで佛教系の鶴見女子學園で教師となり、戰後は一九五一年から學園理事。鶴見女子短期大學開設時は學監に就任し國文科で教授に當ったことは、『鶴見大学の歩み』(一九七九年十一月)にも記述がある。このやうに、中野晴介はたまたま私立大學の重職に轉じたため僅かに名を留めたが、さうでもなければ完全に忘れられた一文筆業者として終った人物だらう。細かく探せば『文壇ユウモア』以外にも『我觀』『書物展望』『國民新聞』等の雜誌新聞に中野の評論が幾つか見え、戰前から譯書や編著もあるが、現にそれらは今日全く顧みられることが無い。だのにわざわざ中野晴介に就て調べて記したのは、かかる目っけ物が古い雜誌を讀み込む愉しみだからでもあるが、名を成さずに消えゆく投稿者たちの姿をその數歩手前の形で暗示してゐる好例だと思ったからである。匿名批評家どもも然り、杉山平助が匿名の中から名を顯したのは異例の事態だった。
氷川烈の正體が杉山平助だとは、『近代生活』一九三二年五月號の匿名批評である走馬燈居士「文壇檢非違使――2――」で見事に推理され、『新潮』七月號で近松秋江「近時罵憤録」も觸れた。かくて匿名が暴かれ出すと、非難を躱すためもあってか、「豆戰艦」は七月二十五日附から横手丑之助といふ署名になった。別人を裝ったが、これも杉山平助である。では氷川烈といふ名は消えたかといへばさにあらず、編輯者に註文されて『文藝春秋』一九三二年十月號に「書齋マルクス主義者の一群」を執筆してゐる。匿名評論家・氷川烈の人氣の程が窺はれよう。三二年十一月號『附録 文壇ユウモア』に載った氷川烈「石濱兄弟の問題」は、この前月號の人物論で石濱知行を取り上げて弟・石濱金作を冷遇すると書いたのに對し事實と違ふと抗議されたので、訂正陳謝を述べた(但し、ふてぶてしく)ものである。同號附録には石濱金作も「兄の爲めに辯ず――氷川烈氏に――」を投じ、「氷川烈といふ人は何病の人か知らないが、若し假りに肺病だとすると、(杉山平助氏なら確かそのやうに記憶する!)」などと皮肉ってゐる。この號では中道左右吉「論壇の戰慄」でも氷川烈を評してをり、世間を騷がせるといふ點では成功だらう。この間、氷川烈「文藝評論家群像」が『新潮』十一月號に載り、横手丑之助名義の「豆戰艦」十一月七日附で『新潮』を月評するついでに觸れられてもゐる。これを受けて、三二年十二月號附録に乾四郎「文壇檢非違使」が、「杉山平助を氷川烈が賞めたり、その氷川烈を横手丑之助がけなしたり、お三人ともさぞお骨が折れるんでござんせう」と茶化した。そのまた次號の一九三三年一月號附録の荒川放水「豆戰艦のお芝居」は、三者が同一人物であることを、ご苦勞にもそれぞれの批評文を一々對照して、證明して見せた。――以上は別に杉山平助關聯のみ特記するにあらず、事實これ以外にもなほ頻出するのであり、眇たる匿名コラムにしてここまで話題が集中する氷川烈と「豆戰艦」の評判振りは尋常ではない。「豆戰艦」が盛名を馳せたことは屡々後年の語り草になってゐるが、それを裏づけられる同時代評は案外見出せず、『文壇ユウモア』でこそ生の好評惡評が聞けるのである。
大衆文學への匿名批評が目立つのも『文壇ユウモア』の特色だ。これを受けて立ったのが直木三十五であった。三三年三月號附録掲載の直木三十五「愛國的といふこと」の中で、直木が自作「日本の戰慄」への杉山平助の批判に反論すると、早速、翌四月號附録に杉山は「直木三十五に答ふ」(註四十九)を寄せてゐる。斯く反論し合ひながらも兩者に類似が認められるのは、矢崎彈の「直木三十五と杉山平助」(註五十)が述べ、直木死後に書かれた杉山の「直木三十五論」(改造社『文藝』一九三四年五月號→杉山『人物論』改造社一九三四年十二月)が「自畫像的人物論」と世評を受けた如し(註五十一)。また「人から一言云はれても、二言云ひ返さないと氣のすまない喧嘩つ早い杉山平助」(『讀賣新聞』一九三三年十二月六日「展望臺」)と言はれた喧嘩屋の面目が出てゐる。これに關してはのち三三年六月號附録で辰野九紫が、「去月號[實際は四月號]の本欄に掲出された八題目の中、釋明にこと寄せてモノ申してゐるもの四つ――その前の月槍玉に擧げられた諸君が自己の立場をムキになつて辯解なさるみたいで、折角の「文壇ユーモア」もこれでは月遲れの「愚痴問答」に等しく」云々と揶揄してゐるやうに、『文壇ユウモア』は多事爭論の場でもあり、それが活氣を生んでゐた。讀んでみれば、惡口雜言でやり返してゐるだけの中身の無い代物もあるが、それでも不思議に言葉が活きてゐるのは、相手がある文章だからだらう。ヤーコブソン流六機能圖式で言ふなら、たとひメッセージ内容は無くとも接觸(コンタクト)による交話機能が際立ってをり、つまり、言表の遂行的(パフォーマティブ)な力が發揮されてゐるのを感じ取れる。放言めいた妄評でも奇妙に魅力があるのは、そこではないか。
續く三三年五月號附録卷頭には瀧亡羊「弔歌二題」が載り、「豆戰艦弔歌」「青龍刀弔歌」と小見出しが付いてゐる。後者「青龍刀」とは、三三年三月號附録の他多餘志「青龍刀その他」でも取り上げられた『時事新報』文藝欄の匿名批評コラムであり、それが廢止されたことを狂歌にしてゐる。「豆戰艦」に對しては、「非常時の世の荒波に哀れにも豆戰艦の果敢なく消えぬ」「物覺え惡しき學生のその如くアンダーラインのすさまじきかな」等と詠んでゐる。横手丑之助署名の「豆戰艦」は一九三三年三月十五日附までで終り、三月二十五日から『東京朝日新聞』の雜誌匿名月評欄は「アンダーライン」と改題新裝、筆者も高野二郎となった。それを詠み込んでゐるわけだ。さしもの「豆戰艦」もこれまでか――と思ひきや、ところがまだ潰えたわけではなかった。「アンダーライン」は二ヶ月で終り、五月二十六日からは「豆戰艦 六月の雜誌評(一)」と、何と、舊題に復してゐる。そして筆者は、これまた氷川烈。匿名の正體が知られて一度は降板しながら、再度呼び戻されるとは特例に屬す。「氷川烈の杉山平助なぞは實名の有無にかかはらず氷川烈でなければならなくなつてゐるのだ。言はば氷川烈といふ商標にプレミアムがついてゐるやうなものである」と尾崎士郎が言ってゐる(註五十二)。如何に氷川烈人氣が根強かったか、知れよう。
――かうして『文壇ユウモア』を讀み込んでゆくと、「豆戰艦」を始めとする他紙の匿名批評についての評判が見られる。逆に、『文壇ユウモア』の匿名批評によく反應するのも、他紙の匿名批評欄なのである。貶し合ふ仲の『讀賣新聞』ですら匿名欄でこの附録の意義は認めてゐる。例へば次の如し。
文藝春秋が毎號その卷末に付するところの「文壇ユーモア」はインチキを表看板に、賣物にしてゐる―その點誰も異存はあるまいが…
四月號のそれを見ると、どうして却々大したものだ。杉山平助のこの欄の文章は、彼の本誌本欄の文章(寢言みたいな時評)よりも、はるかに力強く光つてゐるし、立野信之のこの欄の文章も本欄の「小林多喜二の事」よりも、その弱點が正確に出てゐるし…
同じくこの欄の、春野遠(この變名もだいたい見當つくが)の「動くプロ文壇」や、愚庵鐵眼の「大衆文壇でたらめ考」など、本誌本欄には見出し得ないやうな、讀んで爲になる文章だ。
大聖は市井に隱すと古人は曰くだが、インチキな賣物の中にも、正統な(?)な諸文章中に見出し得ないやうな或るものを時あつてか發見する。これを稱して「インチキの効用」とは如何?
(世田三郎「インチキの効用」『讀賣新聞』一九三三年四月十六日「告知板」)
匿名批評は好んで讀まれるにも拘らず眞正面から言及されることが少なく、それもあって佚文となって忘れ去られてゆきがちなのであるが、『文壇ユウモア』を精査することによって、匿名批評欄同士の相互批評や論戰が辿れるやうになる。匿名批評史にとっては見逃せない資料だと言へる。
大杉重男は無名性を匿名性から區別して、「匿名は固有名の放棄ではなく隠蔽であり、固有名への執着である」と決めつける。インターネットの匿名掲示板に書き込まれる話題の對象が有名な固有名に限定されがちであるやうに、無名な存在について書き込んでも讀まれないから誰もが知る有名なものについて書き込みが集中するのだ、と(註五十三)。たしかに固-有名への執着はゴシップについては言ふ迄も無いし、匿名批評においても多くは有名作家を取り上げるのだが、既に見た通り、匿名批評同士の相互言及といふものがある。固有名と無名性を性急に對立させる前に、無名性と分ちがたくある匿名性について、よく考察する必要があらう。一九三〇年代から盛行するに至った匿名批評には、好き事例が豐富に見出せるはずである。
一―七 その他
臼井吉見がいいことを言ってゐる――
でも、必要あって、明治期の、いや大正期でさえも、古新聞の文芸面や文芸雑誌をとり出して一瞥するとき、かんじんの小説や論議が、とみに色褪せて、読めたものじゃないのに、消息記事や埋め草のゴシップ、さては匿名子の漫言や戯評などが、意外なほど、いきいきと訴えかけてくること必定、そんな覚えのない者はありますまい。幾十年の後、第二第三の伊藤整や瀬沼茂樹が、目をかがやかせて、読みふけるにちがいないと思います。
(「正直正太夫の魅力――匿名批評の功罪2」(註五十四))
言ふ迄も無く、ここに伊藤・瀬沼の名が擧がるのは、とりわけ文壇史に關心する者に訴へることを言ったものである。だがこれは、別段第二の『日本文壇史』の著者を氣取らずとも、好んで古新聞・古雜誌を漁る者ならば誰しも首肯する感覺ではないか。だのにナゼ研究者たちは一番面白く讀むものを論じようとしないのだらう? そして臼井の言から三十餘年の後、今や明治大正のみならず昭和期の新聞雜誌からさへも、雜文・ゴシップが活き活きと訴へかけてくる――この『文壇ユウモア』に見るやうに、だ。
いや、その雜文の隆盛はむしろ昭和期にこそ顯著である。昭和初期からの『文藝年鑑』を繙けば、作品一覽のうち「隨筆・雜文」といふ分類が最もページを取ってゐる。最初の昭和四年版には「隨筆・雜文の傾向」と題する概觀があり、「雜文は各新聞雜誌にあつて、必ずしも重要な地位は與へられてゐないがしかし何れもこれを必要とする點ではいよその度を強くしてゐる」と述べ、さらに「一般娯樂雜誌、婦人雜誌が小説戲曲等の作品のほかに、文藝家の文藝的雜文を掲載する――この傾向が漸次顯著になつて來たこと」「一般雜誌、娯樂雜誌、婦人雜誌が文藝家を煩して文藝以外の題目についての雜文を輯録すること、また逆に文藝雜誌がこの種の雜文を載せるやうになつた事」、即ち文藝の一般化、乃至は一般の文藝化を指摘する。「何よりもこの部門には、雜誌新聞の各方面とも、最もよく時のジヤアナリズムの反映を看取出來ること何人も容易に首肯し得る所であらう」(「隨筆・雜文概觀」『文藝年鑑 昭和五年版』82頁)。雜文とはしばしば隨筆のジャーナリズム的形態における派生ジャンルだとされるし(註五十五)、早く大正半ばから「雜文家」の呼稱を持つ安成貞雄や生方敏郎といふ先例はあるにせよ、それが盛行を極めるのはやはり大正末の『文藝春秋』創刊からとされるのが通説だから(註五十六)、その氛圍氣を甦へらせたといふ『文壇ユウモア』にはどうしても注目させられる。
雜文隆盛は或る意味で第二の言文一致運動でもあった。文體においては口語化である。このことと關聯しようか、匿名批評が口承性を持ったジャンルであることは以前に拙文(前掲註十三)で論じた。『文藝春秋』の始めた座談會の流行と共に、「座談の活字化」(大宅壯一)として認められてゐたのである。いま『文壇ユウモア』を見ると、レビュウ・落語・漫才その他、口承的ジャンルに擬した戲文が多いのは、通底するものに見える。これは『文藝春秋』附録に留まらず、『文藝春秋』の姉妹誌『オール讀物號』は一九三二年五月號に「新作落語の夕べ」と題する五本を載せたが、その前口上に曰く「文藝春秋附録でお馴染みの、文の家エントツ、コタツさん、三升家大勝さんを始め、兼ねて募集の原稿から二三を選んでの大一座」――即ち『文壇ユウモア』からの越境進入であった。無論これらは附録創刊時の一九三一年がエロ・グロ・ナンセンス時代の絶頂であったことの反映で、レビュウで短い演目を列べるヴァラエティー・ショウの形式を採用したのかもしれない。また同じ頃盛んになったラジオ放送に影響されて眞似たところもある。しかし、いづれも聲の文化に屬することに變りあるまい。ウォルター・オングの謂はゆる「二次的な口承性(orality=聲の文化)」といふものは、音聲を再生する電子メディアだけでなく、活字上における文字の文化(literacy)の中にも認められないか。
しかし、無理に價値を説くまでもあるまい。かういふものは本來、默って讀んで獨り樂しみ、それが知らぬ間に背景を知り時代を讀解する素地ともなってゆくものであり、こんな風に縷々書き連ねたのは野暮の極みかもしれない。その野暮を敢へてしたところに、筆者の微衷も存した。既に述べた以外にも、また違った讀み方があるかと思ふ。この解題を讀み、細目を見たら、篤志の方はどうか『文壇ユウモア』といふ附録を手に取って戴きたい。本稿は畢竟、附録の附録(=代補)に過ぎないのだから。

註 
一		魯迅/今村与志雄譯「徐懋庸『打雑集』序」『魯迅全集 8』学習研究社、一九八四年十一月、329〜330頁より。近代中國において雜文・雜感文といふジャンルそのものの創設者と見做される魯迅が、その意義を最も積極的に語った文である。
二		谷沢永一の言に同感する。曰く「文藝春秋は、古本屋で買い求めて、創刊号から揃えています。それは、面白いこともさる事ながら、他の雑誌(『中央公論』や『世界』等)は、世相、風俗、人情の昭和史にはならないが、文藝春秋はそれに応えてくれるからです」と。谷沢永一「真ん中よりも、やや本音より」サンケイ出版『正論』一九八二年五月號「特集 『文藝春秋』は本当にワル≠ゥ」中「『文藝春秋』のここが好き、ここが嫌い」80頁より。
三		やや似て、河盛好藏の「廣い意味の文學的要素」といふ評がある。河盛好藏「「文藝春秋」の功罪――讀者とともに歩いてきた歴史――」『文藝春秋』一九五五年十一月五百號記念特別號、95〜99頁參照。
四		齋藤龍太郎「年末追想録」『讀賣新聞』一九二六年十二月二十三日文藝欄、による。曰く、「文藝趣味乃至文藝知識が一般化されたことは、本年度に於ける文化現象の一つとして見逃すことは出來ない。」「これは主として「文藝春秋」の殘した仕事の結果である。同誌は在來文藝專門の雜誌であつたが、今年の後半期に於て、文藝の一分野へ、更に政治、經濟、その他あらゆる科學の分野を採り入れて、最も社會的な最も一般的なものとした」云々。齋藤は初期『文藝春秋』編輯同人で同社幹部。
五		瑣事をあげつらふやうだが、『文藝春秋三十五年史稿』(文藝春秋新社、一九五九年四月)の「年誌」では昭和6年6月の項に「「附録・文藝春秋」を6月號より「別册・文壇ユウモア」と題名を變更す」と正しく記したのに、『文藝春秋七十年史《本篇》』(文藝春秋、一九九一年十二月。非賣品)の「年誌」(小林正明編)では「6月号より〔付録・文藝春秋〕を改題し〔別冊・文壇ユーモア〕とする」と誤って音引き表記にしてしまってゐる。よって、敢へて記しおく次第。なほ、新聞廣告では音引き表記が早くも一九三一年から見られるが、特に初期は「附録/パンフレット」(『讀賣新聞』一九三一年四月十九日附廣告)とか「別册附録/文壇ニュウス」(『讀賣新聞』三一年五月二十日附廣告)とか、呼び名すら一定しない。
六		保昌正夫「《日本の文芸雑誌》『文芸春秋』――昭和期――」岩波書店『文学』一九五九年十二月號、1475(89)頁より。
七		保昌正夫「「文藝春秋」」日本近代文学館編『日本近代文学大事典 第五巻 新聞・雑誌』講談社、一九七七年十一月、382頁より。
八		但しこれは、陰に隱れた微弱な徴候を何らかの系を成すところまで強度を高めることが趣意であって、それが瑣細な發言すら先行研究として厚遇するやうな研究史といふ制度的ジャンルに屬する振舞ひになるなら、問題含みである。夙に批判のある如く、着眼の「先取り」を評價する「そのような整理自体は必ずしもマイナス面ばかりであるはずはないのだが、しかしもともとの思いつきは、その研究者自身の手で論理と方法の有効性が客観的に検証され得る形にまで展開されないかぎり、しょせん思いつき以上のものではなく、かれの功績にも業績にもなるはずがない。ところが研究史のなかでは、後の人の努力によって逆照射された前者の意味が、そのまま思いつき研究(者)の価値のように見なされる。」……「この時研究史は、研究者たちの相互扶助的な己惚れ鏡に転落する」(亀井秀雄「文学史論の方法」至文堂『国文学 解釈と鑑賞』一九八一年十二月號「特集 近代文学研究法」127頁參照)。戒愼すべきであり、そこに本稿が、敢へて附録なぞに拘泥はる「些末事研究」(市村弘正『[増補] 小さなものの諸形態 精神史覚え書』〈平凡社ライブラリー〉二〇〇四年四月、63〜64頁參照)の構へを取った所以もある。
九		永嶺重敏『モダン都市の読書空間』第三章「初期『文藝春秋』の読者層」、日本エディタースクール出版部、二〇〇一年三月、97〜130頁。これを書評して吉見俊哉が、「初期の『文藝春秋』が、女性読者を中核的なターゲットのひとつとしたゴシップや雑文中心の都市モダニズムの雑誌だったことなど、今日のこの雑誌の男性中心的な保守主義に辟易としている者にとっては驚くような出発点が明らかにされている」(丸善『學鐙』二〇〇一年九月號)とさも意外な顏をしてみせたあたりが、一般的な受け止め方の線か。
十		坪内祐三「日本におけるゴシップ・スキャンダル雑誌の系譜 『滑稽新聞』『文藝春秋』、そして『噂の眞相』…。」噂の眞相『噂の眞相二十周年記念四月別冊 「噂の眞相」の眞相A満身創痍から波瀾万丈への20年史』一九九九年四月、84〜91頁參照。
十一	附録の創始後になるが、一九三一年六月三日附『東京朝日新聞』の無署名「六月の雜誌 文藝春秋、新潮、文學時代」には、「「文藝春秋」の尊い傳統隨筆欄も少し固く舊くなつた。もつと新らしい空氣をいれてはどうか」と見える。なほ、この無署名短評欄「×月の雜誌」は青野季吉が提案して始めた。青野季吉「「豆戦艦」時代」朝日新聞社『週刊朝日 二〇〇〇号突破記念 奉仕版 朝日新聞からみた明治・大正・昭和 三代の社会史』第六十三卷第二十一號(通卷二千十七號)「私と朝日新聞 第2集」、一九五八年五月十四日、131〜132頁參照。同欄が一九三一年十二月二十一日からは「豆戰艦」といふ欄名を冠して新裝され、翌三二年一月二十七日から氷川烈といふ匿名の署名が入り、これが世評を集めたことは青野も回顧するところ。後述する。
十二	大阪毎日新聞社編纂『毎日年鑑 1924』「大正十二年の文藝界」中「文藝春秋」、大阪毎日新聞社、一九二三年十一月、492頁參照。
十三	杉山平助については拙稿「一九三〇年代匿名批評の接線――杉山平助とジャーナリズムをめぐる試論」(日本大学国文学会『語文』第百十七輯、二〇〇三年十二月、97〜114頁。http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/GS/anonymous01.pdf)で論じた。詳しい傳記は、都築久義「杉山平助論」愛知淑徳大学論集編集委員会『愛知淑徳大学論集』第六號、愛知淑徳大学、一九八一年三月、136〜100頁(→都築久義『戦時下の文学』和泉書院、一九八五年九月所收)參照。
十四	圖書館で附録を多少所藏する場合でも、日本近代文學館のやうに、特に注意して出庫請求しないと別册附録だけ別置してゐるので一緒に出してくれないことがある。缺號無く全部揃ってゐたのは、管見では、東京都立中央圖書館であった。
十五	「『文藝春秋』総目次」『文藝春秋七十年史《資料篇》』文藝春秋、一九九四年十二月(非賣品)。もと『文藝春秋三十五年史稿』(文藝春秋新社、一九五九年四月)所收「「文藝春秋」總目次」を、同じ縮刷形式のまま一九九一年十二月號分まで増補したもの。新たに「執筆者 等 索引」を附したのが取り柄だが、當然、誌面本文に記されても卷頭目次に出てない執筆者名は對象外であり、また卷頭目次に掲げられても匿名僞名の多くは(實名が判明してゐるものでも)採録してない。
十六	鈴木氏亨「文藝春秋十年史」はしばしば資料として言及されるものでもあり、和田邦坊の插畫「文藝春秋 十年間の回顧」と共に、坪内祐三編『「文藝春秋」八十年傑作選』(文藝春秋、二〇〇三年三月)92〜101頁に再録せられた。
十七	菊池寛「十五周年に際して」『文藝春秋』一九三七年一月十五周年記念新年特別號、8頁參照。
十八	丸山能子編「著作年表」昭和女子大学近代文学研究室編『近代文学研究叢書 第三十六巻』「直木三十五」昭和女子大学近代文化研究所、一九七二年八月。なほ、續く『近代文学研究叢書 第三十七巻』(仝、一九七三年一月)に前卷への「年表補遺」が附され、「直木三十五 著作年表」が大幅追補されたが、この附録からは「休憩と休載」が「休憩と休戦」と誤植した形で追加されただけ、一九三一年度を通して見てないことが判る。
十九	尾崎秀樹編「直木三十五年譜」植村鞆音編・尾崎秀樹監修『この人・直木三十五 芸術は短く 貧乏は長し=x鱒書房、一九九一年三月、參照。
二十	西村みゆき編「著作年表」福山琢磨編・植村鞆音監修『直木三十五入門 こんなおもろい人だった』新風書房、二〇〇五年二月、參照。直木三十五記念館開館協贊出版。なほ、この年表から追加されたもので、「昭和7年(一九三二)」の項に「若し百万円貰ったら? 其の返答・想像集」があり初出「文藝春秋(文壇ユーモア) 2月号」と記すが、誤り。題名「貰った」の促音が小書きなのはまだしも、初出誌は「2月号」でなく一月號だし、「ユーモア」でなく「ユウモア」だし、それより何より、題の通り「想像集」であるから直木執筆の著作でない。これは、假にこんなアンケートを出したら返答はかうもあらうかと想像した文を、直木その他文壇人の名を詐稱していかにもそれらしく綴ったパロディーである。洒落を眞に受けては『文壇ユウモア』は讀めないことは、後でも述べる。
二十一	直木三十五「川端康成君に」『直木三十五全集 第二十一卷』改造社、一九三五年十二月、所收。これは、林武志・前原雅子「川端康成研究史 文献総覧」(林武志編『川端康成戦後作品研究史・文献目録』教育出版センター、一九八四年十二月、153〜296頁)では落ちてゐる。
二十二	しかしこの與太速報も本氣にした者がゐたらしい。一九三一年七月三十日附・谷崎丁未子より妹尾喜美子宛書翰に、「秋山様よりのお手紙を拝見とてもおかしくて吹き出してしまひました。私に赤ん坊生れたといふうわさがあると書いてありましたもの。あれは文藝春秋のふろくのユーモア欄に書いてあつたエタなのです」云々とある。秦恒平『神と玩具との間 昭和初年の谷崎潤一郎』六興出版、一九七七年四月、184頁所引。
二十三	その言及例として、高見順『昭和文學盛衰史 第一』「第十三章 死と復活」文藝春秋新社、一九五八年三月。また新評社『別冊新評 作家の死 日本文壇ドキュメント裏面史』一九七二年SUMMER(八月、第五卷第三號通卷第二十號。季刊)104〜105頁・148頁。
二十四	執筆者として署名は無いが、一九三一年八月號附録掲載「文壇拳鬪大試合」ほか、文中に武野藤介が登場するゴシップ・戲文は何點かあり、武野作のゴシップは自分の名前を出す癖でそれと判るといふ指摘が當時からあったので、匿名で寄稿してゐたかもしれない。武野藤介については、戰後における艷笑小咄の量産はさておいて、昭和前期における文壇ゴシップ生産者としての面、そしてコント作家としての面が、併せて論ずるに値すると思ふ。武野主宰の季刊誌『コント倶樂部』(八洲書房→民族社→コント倶樂部、一九三八年十月〜)は、早過ぎた『ショートショートランド』(講談社、一九八一年一月〜八五年五月)とも見立てられないだらうか。また武野藤介自身が『文壇今昔物語――ゴシップ書いて三十年――』「著者のことば」(〈東京選書〉東京ライフ社、一九五七年五月)で示唆する通り、彼のやうな書き手がゐなくなったところに、戰後の「文壇の崩壊」(十返肇)を見ることもできよう。
二十五	前掲・永嶺重敏「初期『文藝春秋』の読者層」103頁參照。
二十六	中山昭彦「作家の肖像≠フ再編成――『読売新聞』を中心とする文芸ゴシップ欄、消息欄の役割――」岩波書店『文学』季刊一九九三年春(四月、第四卷第二號)「特集=メディアの政治力――明治40年前後――」、28〜29頁參照。
二十七	金子明雄「新聞の中の読者と小説家――明治四十年前後の『国民新聞』をめぐって――」岩波書店『文学』季刊一九九三年春(四月、第四卷第二號)「特集=メディアの政治力――明治40年前後――」、46〜48頁參照。なほ金子は、「ゴシップ=ルポルタージュという言説のモード」を「徹底して個人の場所から特定の人物の発言や行動を等身大に語り出すこと、そしてその言説を共同体の中で繰り返し反復すること(伝聞形式は一回の発話に反復の要素を持ち込む言説のあり方である)によってのみリアリティを獲得する」と規定する。この前半は、語ることが知ってゐることに從屬する話者の特權性と等價だが、後半部に謂ふ反復性は、さうではなく物語に從屬する知、説話論的な磁場における「現代的な言説」と蓮實重彦が謂ふもの、即ち模倣と複製のディスクールを生むものだ(蓮實重彦『物語批判序説』〈中公文庫〉中央公論社、一九九〇年十月、36頁以下參照)。そこに自己矛盾した二重構造がある。となると、『文壇ユウモア』に見る如きゴシップの讀者論的顛倒は、以前からずっと陰に胚胎してゐたと見る方が精確か。
二十八	蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュ・カン論 下』第三部「XV 犠牲者の言説」〈ちくま学芸文庫〉筑摩書房、一九九五年六月、321頁參照。
二十九	詳しくは拙論口頭發表時の配付資料「ジャーナリズム論の一九三〇年代――杉山平助をインデックスとして」(平成十四年度日本大學國文學會總會研究發表、二〇〇二年七月六日。http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/GS/journalism02.pdfで全文公開)に記した。
三十	佐々木代々樹「總て型破り」文藝春秋社『文藝春秋』一九三二年一月十周年記念新年特別號「十年間の讀者として」、209頁參照。
三十一	村松梢風『芥川と菊池 近世名勝負物語』文藝春秋新社、一九五六年五月、147頁參照。
三十二	例として、『讀賣新聞』一九三一年七月九日文藝欄「カタメガネ」。但しこれも『文藝春秋』絡みとはいへ、同誌以外の媒體でも近藤經一が話題になることはあったわけだ。しかし一年後、『讀賣新聞』一九三二年六月十二日文藝欄の匿名短評「突撃路」では最早、「此頃聞えなくなつた名前」に擧げられてゐる。なほ、日比嘉高「大衆の意地悪なのぞき見――『講談倶楽部』のスポーツ選手モデル小説」(大衆文化研究会編『大衆文学の領域』大衆文化研究会、二〇〇五年六月)によれば近藤は、一九三〇年から三一年にかけては大衆誌に作家活動の場を移してゐた。
三十三	金子勝昭『歴史としての文藝春秋 増補「菊池寛の時代」』〈出版人評伝シリーズ〉日本エディタースクール出版部、一九九一年十月、128頁・174頁參照。
三十四	但し『文藝通信』奧附の編輯人は菊池武憲となってをり、それが名目だけで「実際の編集は、永井龍男が担当した」(澁川驍「登竜門だった雑誌」『文藝通信総目次・執筆者索引』日本近代文学館/八木書店、一九九二年五月、10頁)と言はれるにせよ、具體的な裏づけに乏しい。前掲『文藝春秋三十五年史稿』では、「史稿」前半は永井龍男の執筆にも拘らず謙抑からか『文藝通信』に一切言及が無く、ただ「年誌」の昭和8年10月の項に『文藝通信』の創刊を記して「編集長・永井龍男」とするのみ。以降これが踏襲されたらしいが、それだけでは根據として寥しい。寺田博編『時代を創った編集者101』(新書館、二〇〇三年八月)に「永井龍男」が載ったが、『オール讀物』『文藝春秋』編輯長としてで『文藝通信』には觸れず、項目筆者の豊田健次は編輯と無關係な個人的思ひ出話に筆が流れ、そのうへ舊稿の燒直しだった(豊田健次「永井龍男さんと酒」『かまくら春秋 最後の鎌倉文士 永井龍男 追悼集』かまくら春秋社、一九九一年十一月、參照)。他に、永井龍男「文藝春秋の頃」(文藝春秋新社『文學界』一九五二年四月特別號「文藝春秋三十年記念」掲載。目次では「創作」に入れる)で、「「文藝通信」といふ「文藝講座」附録のパンフレットをこそこそと編輯してゐた私」とだけ觸れられてゐる。が、寺崎浩『ある囘歸』(蝸牛社、一九七八年三月)所收の短篇自傳小説「雪催い」では、『文藝通信』は寺崎と同定される主人公・園が獨りで編輯してゐたやうに書かれてをり、寺崎最晩年の隨筆「二つの谷間」(東京出版センター『電電ジャーナル』一九八一年二月號)でも、『文藝通信』は創刊前は菅忠雄が編輯する豫定だったが病氣のため實務は社員でもない寺崎一人に任せられたと回顧してゐる(掛野剛史氏のご示教に據る)。兩人の記憶違ひもありさうで、なほ講究すべきである。
三十五	『文藝春秋』一九三三年十月號「編輯後記」では、同時に發刊された『新文藝創作講座』にまづ觸れた後、『文藝通信』について「是は一寸講座の連れ子の形だ」と述べる。ここでも附録ではあった。
三十六	近松秋江もまた、「ところが「文藝春秋」も漸く成長して、やゝ「中央公論」などに近いものになり、昔の道樂がやつぱり止められぬところから、今度新に「文藝通信」を創刊し、彼氏[=菊池寛]の好みなる、逸話やゴシツプで文壇人物を評傳しようといふ趣向だ」と評する。近松秋江「文壇、時の問題【上】 」『讀賣新聞』一九三三年十月二十一日文藝欄。先に引いた正木不如丘の『文壇ユウモア』への評と相似する。編輯側からの言としては、『都新聞』一九三三年九月八日附「文壇その時々」欄の紹介がある。「今度文藝春秋社から出る新雜誌「文藝通信」の編輯は小兵なれども眼のギヨロリとした齋藤龍太郎・其抱負を語つて「見給へ、新聞の文藝欄でも何んでも、ゴシツプの所だけ誰しも一番に眼をつけるだろ。そこンところをネラふんだよ。」とは、文藝春秋の古參として、昔忘れぬ性根ではないか」云々。
三十七	一例を擧げると、大屋幸世『蒐書日誌 一』皓星社、二〇〇一年六月、10頁。また、曾根博義「二十歳の小品」(『編新 水上勉全集 第七巻』中央公論社、一九九六年四月)も『月刊文章』投稿欄に觸れる。
三十八 創刊に先立って一九三一年三月三十日附『讀賣新聞』に載った廣告に、「第一書房十錢雜誌」「四月廿一日發賣」と見える。『セルパン』について最も詳しくは、複刻版に附された竹松良明「セルパン・新文化 解説」(『国立国会図書館所蔵 セルパン・新文化 別巻』アイ アール ディー企画、一九九八年十一月、1〜25頁)參照。但しこの『別巻』には索引だけで總目次が無いので、併せて、竹松良明編「「伴侶」「セルパン」細目」(地上社『地上』第二集、一九八九年十二月)及び仝編「「セルパン」(後半)、「新文化」細目」(『地上』第三集、一九九〇年八月)をも入手しなければならない。
三十九 小田切進「解題」『現代日本文芸総覧 文学・芸術・思想関係雑誌細目及び解題 中巻』明治文献、一九六八年一月、523頁→『増補改訂 現代日本文芸総覧 文学・芸術・思想関係雑誌細目及び解題 中巻』明治文献資料刊行会/大空社、一九九二年十月。なほ『文藝レビユー』については、『文藝春秋』創刊號に倣って「好きなことを勝手に言わせる小さな綜合雑誌をねらった」と瀬沼茂樹が言ったのを受けて、平野謙も「定価十銭の四段組のザラ紙の雑誌というのは、おそらく《文藝春秋》の真似だろうけれども、普通の同人雑誌ではなくて、できれば商業ベースに載せたいという気持もあった」と推察してゐる。平野謙・瀬沼茂樹「伊藤整人と文学」『平野謙対話集 藝術と実生活篇』(未来社、一九七一年六月)376頁参照。
四十	曾根博義「『文学世界』――関東大震災前夜の投書雑誌 付・主要目次」EDI『板』第L期第八號(通卷二十五號)、二〇〇四年八月(年三回刊)、2頁參照。また同じ筆者により關聯して、「生田春月と『文芸通報』『詩と人生』」日本古書通信社『日本古書通信』二〇〇二年九月號、「川端康成「夢四年」の初出稿」中尾務(編輯發行)『CABIN』第六號(二〇〇四年三月)、「金児杜鵑花と雑誌『現代文藝』」『日本古書通信』二〇〇四年四月、「昭和十年代の投書雑誌」『日本古書通信』二〇〇四年十一月號「最近の古書即売会 収穫と希望」、「『文学世界』掲載本庄陸男初期作品」日本大学国文学会『語文』第百二十輯(二〇〇四年十二月)、がある。
四十一	「おそらく「文藝通信」は「文章倶楽部」を参考にして、企画されたのだろう」と見る向きもある。澁川驍「登竜門だった雑誌」『文藝通信総目次・執筆者索引』日本近代文学館/八木書店、一九九二年五月、10頁參照。
四十二	大宅壯一「文壇ギルドの解體期――大正十五年に於ける我國ヂヤーナリズムの一斷面――」新潮社『新潮』一九二六年十二月號→大宅壯一『文學的戰術論』中央公論社、一九三〇年二月、所收。大宅は文壇ギルド解體の結果と見るべきものを「第一に『素人』の文壇侵入である」とし、また純文藝雜誌は「純文藝の甲殼を脱して一般化することによつてより多くの讀者を吸收する」ことでしか生き殘れない、と指摘してゐた。
四十三	名が實物から一人歩きするやうな括弧附きの存在となって權威を有したもの、つまり「固有名」が「有名人」にすりかへられたものを、「固-有名」と記してゐる。赤間啓之『分裂する現実 ヴァーチャル時代の思想』〈NHKブックス〉日本放送出版協会、一九九七年十月、92頁以下參照。
四十四	山口功二「マス・ジャーナリズムとしての批評(二)――杉山平助と昭和期ジャーナリズム――」同志社大学人文学会『評論・社会科学』第九號、一九七五年三月、71頁參照。
四十五	これを暴いた文で、S・V・C(鈴木茂三郎)「新聞紙匿名月評」文藝春秋社『文藝春秋』一九三三年一月號→S・V・C『新聞批判』大畑書店、一九三三年四月、179頁以下參照。また、無署名「ジヤアナリズムの動き」新潮社『新潮』一九三三年一月號、仝「ヂヤアナリズムの動き」『新潮』一九三三年二月號、も對照せよ。のち杉山自身が「匿名批評論」(初出、日本評論社『日本評論』一九三七年五月號「匿名評論是非」→杉山平助『現代日本觀』三笠書房、一九三八年三月、所收)で回顧して觸れた。これらについては、コラム「書物史片々」に寄せた拙稿「雜誌協會s.朝日新聞・豆戰艦――杉山平助の「批評の敗北」」(金沢文圃閣『文献継承』第六號、二〇〇三年十二月→深井人詩編『文献探索 2004』文献探索研究会/金沢文圃閣、二〇〇四年四月。http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/biblio/henpen01.htm)で、やや立ち入って紹介したことがある。
四十六 杉山平助「批評の敗北」『文藝從軍記』〈文藝復興叢書〉改造社、一九三四年六月、15〜23頁所收→仝『文學と生活』〈有光名作選集〉有光社、一九四二年八月、20〜28頁所收。
四十七	谷沢永一『文豪たちの大喧嘩――鴎外・逍遥・樗牛』(新潮社、二〇〇三年五月)が卷末「谷沢流「登場人物・事項」コラム」の「杉山平助」の項で、「昭和2年5月から『文藝春秋』に匿名時評「文藝春秋欄」を担当」としたのは、時期が早すぎ、何に據ったものか不審である。一九二八(昭和三)年夏には杉山はまだ『三田文學』に「時事雜感」を書いてをり、その後それが認められて「文藝春秋」欄に拔擢されたとするのが通説。和木清三郎「氣の好い氣の弱い男」三田文學會『三田文學』一九三六年三月號「杉山平助氏の作品と印象」、參照。また杉山自身が筆者であることを明かして「文藝春秋」欄での執筆を收めた「文壇從軍記」(前掲『文藝從軍記』207頁以下)は、「昭和三年秋より」の收録である。
四十八	曾根博義「紀伊國屋書店のPR誌」EDI『板』第L期第六號(通卷二十三號)、二〇〇三年十二月、參照。
四十九	杉山平助「直木三十五に答ふ」『氷河のあくび』日本評論社、一九三四年十二月、所收。これを前掲『近代文学研究叢書 第三十六巻』「直木三十五」の「四、資料年表」では、『氷河のあくび』から採って、初出で拾ってない。他に『文壇ユウモア』からは真偽定かでない戲文ゴシップまで幾つも採録してゐるにも拘らず、題名に直木の名を入れたものを漏らすとは、前後の號を通覽してないのだらう。
五十	矢崎彈「直木三十五と杉山平助」紀伊國屋書店レツェンゾ編輯部『レツェンゾ 紀伊國屋月報』一九三四年一月號(第三卷第一號)→矢崎彈『新文學の環境』紀伊國屋出版部、一九三四年十一月、參照。
五十一	疋頓々「自畫像的人物論」『東京日日新聞』一九三四年五月六日「蝸牛の視角」。その翌々日同欄に杉山平助からの應答あり。また、杉山平助「僕の直木論 人物論の定跡で行つたのだ」『都新聞』一九三四年五月三日「大波小波」、等も參照。
五十二	尾崎士郎「匿名無用の説 一遍假面を脱いでは何うか」『都新聞』一九三三年十月十九日「大波小波」→小田切進編『大波小波 匿名批評にみる昭和文学史 第一巻・1933-42』東京新聞出版局・一九七九年三月40頁。
五十三	大杉重男『アンチ漱石〜固有名批判〜』講談社、二〇〇四年三月、109頁參照。
五十四	臼井吉見「正直正太夫の魅力――匿名批評の功罪2」『田螺のつぶやき』文藝春秋、一九七五年十一月、90頁より。
五十五	山本健吉「昭和の隨筆文學」藤村作編『増補改訂 日本文學大辭典 別卷』新潮社、一九五二年四月、170頁參照。以降、各種文學事典類に踏襲された。
五十六	一例として、吉田精一『随筆の世界 吉田精一著作集25』一「13 昭和の随筆(一)」桜楓社、一九八〇年十一月、107頁參照。より詳しくは、この邊りを扱った數少ない專論として、和田利夫「近代の随筆と随筆の「近代」 転換期における随筆流行現象と批評への希求」日本文学協会編『日本文学講座 7 日記・随筆・記録』大修館書店、一九八九年五月、參照。

二 全號細目
凡例
一、	月號は『文藝春秋』本誌に準ず。
一、	上から順に、標題、執筆者、ページ番號(ノンブル)。
一、	すべて本文に即いてその儘に採録し、附録卷頭目次と照合して誤植と斷定されたもののみ訂した。
一、	[	 ]内は原文標記に無し、編者による補記。ノンブルが[  ] 内にあれば原誌にそのノンブル無し。
一、	[無]は無署名。*は註記。〔 〕内は本文の小見出し、副題ではない。
一、	刷色については、變色があるのでおよその目安と心得られたい。

附録 文藝春秋 (一九三一年四月號)
四六判十六ページ・刷色墨
目次 	 [1]
三奇老の説[*隨筆]  	三上於莵吉	 [1]−2
松竹と、日活[*隨筆]  	直木三十五	 2−3
新釋モダン語辭典[*戲文] 	 [無]	 3
社會時評 〔飛行機よりの投身自殺/ルンペン/姦通罪〕    	X・Y・Z	4
四月の運勢判斷[*戲文]  	[無]	5
新日本地理風俗大系[*戲文]   	[無]	5
今日の文壇の状勢と批評[*評論]  	堀木克三	6−7
文章泥土に墜つ[*短評]  	李 翰林	7
四月暦  				[無]	7
文壇生活振り百態 里見ク  	[無/畫・和田邦坊*]	8−9
文壇名流 戀のレビユウ 開幕劇[*戲文] 	[無]	9
今から實行できる金儲けの秘法傳授[*戲文] 	大川吉兵衞	10−11
新編 動植物園[*戲文]  	ジユール・ヂヤナール	11
かくもあらん短文集[*戲文]
 「花といふ字を用ひて短文を作れ」
 といふ題が、若し出たとしたら  	[無]	12
文人繪卷[*漫畫]
	〔(一)菊池寛/(二)谷崎潤一郎/(三)徳田秋聲/(四)中村武羅夫〕  	和田邦坊	13
文壇新語辭典(一)[*戲文、あ〜こ] 	[無]	14−15
男女美術思想の養成に就て[*戲文]
 一名、エロの新境地論、亭
    主操縱術、奧傳皆傳 	迷 羊山 	16
*插畫は『文藝春秋』一九三一年三月號「名士お臺所托鉢記」104頁からの轉用。
*この號のみ殆んど三段組だが、次號より基本的に四段組となる。
附録 文藝春秋 (一九三一年五月號)
四六判十六ページ・刷色紫
目次  		[1]
ジヤアナリズム無罪[*隨筆]  	千葉龜雄	[1]−2
抗議*  	徳田秋聲	2
倶樂部とメンバー[*隨筆]  	直木三十五	2−3
モダン盛り場風景――その一、銀座の卷――[*戲文] 
	 〔明るい鋪道/和やかなカフェ/憂鬱なB・G・C/退屈な喫茶店〕	爾庵虚空堂	3−5
斬人斬馬劍[*短評]  	夜光蟲	5−6
五月の暦  	[無]	6−7
文壇鸚鵡石[*戲文]  	[無]	7
文壇エロ十景[*狂歌]  	[無]	8
文人繪卷 〔(一)三上於菟吉/(二)谷 讓次/(三)廣津和郎〕[*漫畫]  	和田邦坊	9
新聞の噂  	K・K・K	10
文壇人を野球選手に見立てたなら?  	H H H	11
五月の注意[*戲文]  	[無]	12−13
聲色掛合文句集[*戲文]  	[無]	13
文壇特種消息[*戲文]  	[無]	13
文壇新語辭典(二)[*さ〜ひ]]  	[無]	14−15
文壇公設市場特賣品御案内〔食料品の部/燃料其他の部〕[*戲文] 	[無]	16
名は體を表はすの事[*戲文]  	[無]	16
*前號ゴシップ「戀のレビユウ」への取消し願ひ。

別册 文壇ユウモア (一九三一年六月號)
四六判十六ページ・刷色藍
目次  		[1]
自動車のこと  	直木三十五	[1]−2
菊池・横光・中河 〔有憂華/新刊二つ〕  	川端康成	2−3
モダン盛り場風景―その二、神樂坂の卷―[*ゴシップ]  	爾庵虚空堂	3−5
商品、廣告[*隨筆]  	千葉龜雄	5
斬人斬馬劒[*時評]  	夜光蟲	5
文壇諸士 女見立  	Q・Q・Q	6−7
罵詈纔謗の説[*隨筆]  	酒井眞人	7−8
初夏用語凡例[*戲文]  	[無]	8
大衆座樂屋の賑ひ[*漫畫]  	和田邦坊	9
徒然草[*戲評]  	一休 法師	10
けふの放送番組[*戲文]  	[無]	10
文壇かるた[*戲文]  	[無]	11−12
文壇鸚鵡石[*戲文]  	[無]	12−13
作家珍分類圖[*戲文]  	ドクトル・リンネ	13−14
文壇新語辭典(三)[*は〜ま] 	 [無]	14−15
女給 文壇大家を語る  	銀座 H子	16
文壇よろづ案内[*戲文] 	 [無]	16

別册 文壇ユウモア (一九三一年七月號)
四六判十六ページ・刷色緑
目次  		[1]
盲目蛇に怖ぢず――ウルトラ・フワンに教へる――[*評論]  	金子洋文	[1]−2
『風博士』[*評論]  	牧野信一	2−3
右翼文壇五人男 
	 〔直木三十五/廣津和郎/菊池寛/中村武羅夫/谷崎潤一郎〕  	[無]	3−4
左翼文壇五人男 
	 〔秋田雨雀/前田河廣一郎/大宅壯一/新居格/金子洋文〕  	[無]	4−5
直木のために*  	大衆文壇子	5
放笑記[*戲文]  	鴨 長命	5−7
文壇 夏期文化大學開設!![*戲文] 
	 〔遊藝科/經濟科/サロン科/女性科/喧嘩科/ルンペン科/奇術科〕	[無]	7−8
消息[*戲文]  	[無]	8
文壇ボクシング時代[*漫畫]  	和田邦坊	9
文壇 花ことば[*戲文]  	SAY・IT	10−11
バー風景[*戲文]  	[無]	11
文壇人が拳鬪選手になつたなら[*戲文]  	RING	12−13
モダン盛り場風景―その三・淺草の卷―[*ゴシップ] 	爾庵虚空堂	13−14
文壇新語辭典(續)[*ま〜も]  	[無]	14−15
文壇科學大系[*戲文]  	[無]	15−16
*	『文藝春秋』本誌の一ページ評論「大衆文壇」欄が巷間で直木三十五の執筆と思はれてゐるので、 筆
 者が直木に非ずと告げたもの。

文藝春秋附録文  壇ユウモア (一九三一年八月號)
四六判十六ページ・刷色青緑
目次  		[A]
文壇消息[*戲文] 	[無]	[A]
文壇拳鬪大試合[*戲文]
 菊池・判定で前田河に勝つ 
  文壇拳鬪倶樂部主催
  ×月×日の試合觀戰記  	リングサイド・マン	[A]−D
文壇はうた集[*戲文]  	[無]	E
夜店風景文壇落人見立[*戲文]  	[無]	F−G
日常新語[*戲文] 	[無]	G
彼若し太平洋横斷の飛行家たらんには―
  (その出發の日の曰く集)[*戲文]  	[無]	H
あとや先き冥土の旅[*漫畫]  	和田邦坊	I
新選 ほととぎす集[*川柳]  	[無]	J−K
避暑地案内[*戲文]  	[無]	K−L
文藝經濟欄 〔株式/生糸/砂糖〕[*戲文] 	 [無]	L
文壇水上競技大會[*戲文]  	[無]	L−O
文壇科學大系[*戲文]  	[無]	O−P
*この號の附録は兩面一枚刷を一丁十六ページに折り疊んだアンカット。

附録 文壇ユウモア (一九三一年九月號)
菊判十四ページ・刷色赤茶
目次  		353
文壇消息[*戲文]  	[無]	353
文 壇レビウ 「秋」 老若男女總出演[*戲文]  	[無]	354−355
御馳走樣文壇食物見立[*戲文] 	 [無]	355
ないものづくし[*戲文]  	[無]	355
文壇掛合ばなし[*漫才]  	文の家 エントツ
  	同   コ タ ツ	356−357
今月の新譜表(邦樂)[*戲文]  	[無]	357−358
文壇ジャズ バンド[*漫畫]   	[吉田貫三郎]	357・358・359・360・361・362
文壇 新作映畫一覽[*戲文]  	[無]	358−359
因果はめぐる―彼等の來世は?―[*戲文]  	[無]	359−360
文壇數學教科書 (卷の一)[*戲文]  	[無]	361
彼若し失業せば何になるか[*戲文]  	[無]	361−362
新刊紹介[*戲文] 	 [無]	362−363
文壇ダンスホール廻り[*戲文] 
	 〔ウシゴメ・ホール/プロ・ダンス・ホオル/大衆ホオル/春秋クラブ〕	[無]	363−364
文壇俳句見立  	馬笑庵	364−365
文壇 サロン・ドートンヌ (短評附)[*戲文]  	[無]	365
文壇新聞 第一號[*戲文]  	[無]	366
*この號より卷末添附ではなく、通しノンブルで本誌卷末に續けて綴ぢてゐる。

附録 文壇ユウモア (一九三一年十月號)
菊判十四ページ・刷色藍
目次		365
文壇消息[*戲文]  	[無]	365
休憩と休載[*隨筆]  	直木三十五	366−367
滿蒙問題夜話[*戲文]  	  杉澤村 芦原亭(談)*	367
文壇 珍音樂會[*戲文]  	[無]	368
[文壇人野球選手見立て]**        	[吉田貫三郎?]	368・369・370・371・372・376
「文藝春秋」新年號大計畫[*戲文]  	[無]	369
文壇掛合ばなし[*漫才]  	文の家 エントツ
 		同   コ タ ツ	370−371
拾月の暦  	[無]	371
例解 新用語[*戲文]  	[無]	372
文壇俳句見立  	[無]	372
徳田丸危し[*漫畫]  	和田邦坊	373
新作落語 ベビイ・ゴルフ  	穴家十八	374−375
新註 やなぎだる[*川柳]  	[無]	375−376
閉店につき投賣り[*戲文]  	眠醒湯本舖製藥品	376
人事相談――體驗をもつて語る諸氏の解答を聽け――[*戲文]  	[無]	377
文壇新聞 第二號[*戲文] 		378
* 府立松澤病院の有名な誇大妄想狂に擬す。「氏は先年迄、自ら「將軍」と名乘つて居たが、近年は「亭」
 と稱して居る」と前書きあり。所謂「蘆原將軍」であるが、「蘆原帝」とも自稱してをり、皇室を憚っ
 て亭字で表記したか。
**初頁目次にも記事タイトル記載無し、いま編者が假に命名した。

附録 文壇ユウモア (一九三一年十一月號)
菊判十四ページ・刷色青緑
目次		325
ユーモア消息[*戲文]		325
落語 有名  	三桝家大勝口演
      	今村信夫速記	326
名流社アパアト風景 (老人の部)[*戲文]  	[無]	326−327
冥府文學者座談會[*戲文] 
  	井原 西鶴  田山 花袋  有島 武郎  小山内 薫
  	夏目 漱石  芥川龍之介  生田 春月  ダ ン テ
  	        赤鬼 太郎  青鬼 太郎   		328−330
拾一月の暦  	[無]	330−331
民謠俚謠 文壇風景  	[無]	331
お斷り* 	 [無]	331
文壇人夜店見立て[*文と漫畫]  	吉田貫三郎	332−333
文芸春秋社宛珍手紙、珍葉書集
 ――誤植及訂正一切無し 全部原文のまゝ――		334−335
文壇ベビーゴルフ[*漫畫]  	和田邦坊	336
『文藝春秋』十周年記念事業 新計畫發表[*戲文]   		337
夢占[*時評]  	[無]	337
文壇新聞 第三號[*戲文]		338
*「文の家連」が「南米へ移住」するため「今月號よりは掲載する事が出來ません」と。

附録 文壇ユウモア (一九三一年十二月號)
菊判十二ページ・刷色橙
目次		325
ユウモア消息[*戲文]		325
作品を書かずして一流作家となる法*  	鈴木氏亨	326
新作落語 カフエおとしばなし  	穴家十八	327−328
夢占[*時評] 	 [無]	328
女流顏見世興業(役割御披露)[*漫畫]  	和田邦坊	329
スポーツ特輯の頁[*戲文] 	[無]
 文壇チーム米國職業野球團を惱ます
   九回目に亂打され17A―1にて惜敗		330−331
 8-5     
   文文壇O・B、新人を破る[*ラグビー]  		331−332
 關東庭球女子選手權 
   シングルは中条百合子孃、ダブルは林芙美子、平林たい子孃組		332
 けふの運動  		332
文学青年の日記  	[無]	332−333
お斷り**  	[無]	333
名流社アパアト風景 (若者の部)[*戲文]  	[無]	334−335
イポ・ポイの詩[*隨筆]  	高田 保	335
文藝春秋宛・珍葉書  	(江戸ツ子)	335
實話 荒木前京大總長と野球 	 [無]	336
拾二月の暦  	[無]	336
* 	十月號附録所載「文壇新聞 第二號」最下段の三行廣告風に仕立てた「文壇新聞よろづ案内」中に、
 「文學 何も書かないでも一流の作家となる法を懇切丁寧に指導す 照會要三錢/市外高田町 鈴
 木氏京」とあり、これを眞に受けた申込みが五十通以上來たので、釋明した。
**「南米へ出稼ぎに行つた文の家連は未だ日本へ歸つて來ず」休載すると。

附録 文壇ユウモア (一九三二年一月號)
菊判十六ページ・刷色焦げ茶
目次 		 579
何の爲の監督局[*隨筆]  	直木三十五	579−580
學壇掛合噺   	文の家 エントツ
 ――東京帝大法學部の卷――[*漫才] 	同   コ タ ツ	580−582
若し百萬圓貰つたら? 其の返答・想像集[*戲文] 	[無]	582−583
奉祝二文藝春秋十周年一[*詩]  	滋賀縣 成田治三郎	583
[『オール讀物號』全頁廣告]  		[584]−[585]
[『婦人サロン』全頁廣告]  		[586]−[587]
一九三二年萬歳と才藏[*漫畫]  	和田邦坊	588
新作落語 七福神  	縁起亭吉丸	589
新春温泉案内[*戲文] 	 [無]	590
レイク・プラシツドの豫想[*戲文]  	[無]	590−591
新作落語 戰爭  	柱 文藥	591−592
巴里の彼女たち――虚々實々噂聞書―― 	[無]	592−593
[『モダン日本』全頁廣告]  		[594]
附録 文壇ユウモア (一九三二年二月號)
菊判十六ページ・刷色青
目次		321
ユウモア消息[*戲文]		321
文藝春秋十年史  	鈴木氏亨	322−331
文藝春秋十年間の回顧*[*漫畫]	和田邦坊 324・327・330
學壇掛合噺   	文の家 エントツ
 東京帝大經、文學部の卷[*漫才]  	同   コ タ ツ	331−333
實話 カフヱで聞いた話  	郊外住人	334−335
小話 船ものがたり  	穴家十八	335−336
二月の暦  	[無]	336
* 	當附録「目次」では標題「十年史漫畫」。本誌卷頭目次では「文藝春秋十年史………鈴木氏亨/漫畫
  和田邦坊」と插畫扱ひ。

附録 文壇ユウモア (一九三二年三月號)
菊判十六ページ・刷色焦げ茶
目次		321
ユウモア消息[*戲文]		321
新作落語 フアスシスト チヤンチヤン征伐 	直木三十五	322−324
文壇戯歌  	[無]	324−325
落語講談 執念  	再遊亭圓宇	326
戰爭文學展望[*漫畫]  	和田邦坊	327
脱退(新作落語)  	机 二三代	328−329
 御紹介*  	[無]	329
三宅やす子女史に物を訊く座談會**
  	質問者 芥川龍之介 島田清二郎 厨川 白村
	三宅 恒方		330−331
文壇一人一言(一部)[*漫畫]  	吉田貫三郎	332−333
近頃名句集  	[無]	334−335
文壇噂聞書 	 [無]	334−335
お知らせ*** 	 [無]	335
新曲替唄集 一 大宅トコ壮太節  	[無]	336
三月の暦  	[無]	336
*「これは新落語界の惑星穴家十八氏の推薦による新人机二三代氏の新作物です。」
**「(冥府池畔極樂亭にて)」。三宅やす子は一九三二年一月十八日歿。
***「「エントツ、コタツ」の兩氏は、又エチオピア國の方へ巡業に出かけましたので、遺憾ながら休載
   しました。」

附録 文壇ユウモア (一九三二年四月號)
菊判十二ページ・刷色赤
ユウモア消息[*戲文] 		353
珍説 大衆文藝と史實[*戲文]  	以田邑朴魚	354−355
勇蒙阿詩抄[*狂詩] 		354−355
學壇掛合噺   	文の家 エントツ
 ―東北帝大理學部の卷―[*漫才] 	同   コ タ ツ	356−357
[『オール讀物號』全頁廣告]  		[358]−[359]	
笑話 就職五人男  	穴家十八	360−361
珍作家調[*戲文]  	八尾龍之助	361
文壇漫畫[*文と畫]  	吉田貫三郎	362−363
櫻名所案内[*戲文]  	[無]	363−364
見立小唄集  	[無]	364
ゆうもあ暦  	[無]	364

附録 文壇ユウモア (一九三二年五月號)
菊判十六ページ・刷色紺
目次		325
文藝苦言[*時評]  	零陰棒	325−326
同人雜誌の作家に與ふ  	愚利留	326−328
文壇時響[*時評]  	大阪宗太	328−330
ユーモア小説 戀よりも強し  	相良利滿	330
東京カフエめぐり 『レツド・テエプ』  	(マア坊)	331
川柳麥酒樽  	砂土  選
  	拔天ゑがく*	331
[『オール讀物號』全頁廣告]  		[332]−[333]
[『婦人サロン』全頁廣告]  		[334]−[335]
銀座ホオル風景[*戲文]  	をはりてう	336−337
家庭セクシヨン 
 ホツト・ドツグの作り方  	尾城井こい女史	337
丸の内美人評判記  	一記者	337
落語 お妾のお産  	清少亭なごん	338
新職業男ダンサア論[*戲文]  	瑠井十五	338−339
夜の東京(第一回) 〔大森の卷〕  	本誌特派員	339
丸木砂土 編 春の辭典  	[丸木砂土]	340
科學のペエジ 飛行機の空中給油  	技師 落内洋二	340
合理的に[*小咄] 	 [無]	340
*丸木砂土と長崎拔天。

附録 文壇ユウモア (一九三二年六月號)
菊判十六ページ・刷色焦げ茶
目次 		325
文壇時響[*時評]  	大阪宗太	325−327
新潮是非[*時評]  	虹燒亭主人	327−329
爆藥筒[*時評]  	火川 裂	329−331
晩翠詩宗に呈す[*戲詩]  	晩鐘	330−331
文藝苦言[*時評]  	零陰棒	331−334
[『婦人サロン』全頁廣告] 		332−333
文壇テレビジヨン[*ゴシップ]  	×△○	335−337
猥文學取締是非[*隨筆]  	山手平松	337−338
老いと若きと[*人物評]  	愚利留	339−340
[賣藥廣告] 		340

附録 文壇ユウモア (一九三二年七月號)
菊判十ページ・刷色墨
目次 		331
現代風俗[*時評]  	愚利留	331−332
零陰棒先生へ  	杉山平助	332−333
文壇時響[*時評]  	大阪宗太	333−335
文壇川柳  	しげ坊	335
文藝苦言[*時評]  	零陰棒	335−338
[『婦人サロン』全頁廣告] 		[336]−[337]
新内閣諷詠[*狂歌] 	岐 山 人
  	双 龍 子
 	 畫 長崎拔天	338−339
處士横議[*時評]  	中井 鐵	339−340
一言* 	 [無]	340
* 編輯部からの布告。解題中に全文を引用しておいた。
*この號以降、色インク刷りを止め、普通の黒インクになる。

附録 文壇ユウモア (一九三二年八月號)
菊判八ページ・刷色墨
目次/[緒言*]		335
熱意問答[*隨筆]  	藏原伸二郎	335−336
[『婦人サロン』三行廣告]		336
G・P・Uに物を訊く座談會[*戲評]	藤崎 寛	336−340
婦人界ユーモア[*『婦人サロン』記事廣告] 		[338]
[『婦人サロン』全頁廣告]		[339]
天下泰平[*時評]  	黒川政介	340−341
文壇ゴシップ  	山本啓介	341−342
[『オール讀物』三行廣告]		342
*	「文壇ユウモアも夏痩せだ。/この欄に就ては甲論乙駁囂々たるものがあるが、中傷の頁	でも、阿
	諛の頁でもない。次號からまた縒をかける。」

附録 文壇ユウモア (一九三二年九月號)
菊判八ページ・刷色墨
目次/[緒言*]		333
人物印象[*隨筆]  	雅川 滉	333−335
文壇時響[*戲文]  	大阪宗太	335−338
[『モダン日本』全頁廣告]		337
文藝欄は何處へ行く[*時評]  	中井 鐵	338
劇壇管見[*時評]  	四代目 室田武里	339−340
文壇ゴシップ 	 [無]	340
*	「本欄投稿多數來れど採用すべき傑作なし。掲載の分薄謝を呈す。有名人、無名人奮つて投稿あれ。
  編輯部「ユーモア欄」宛」。

附録 文壇ユウモア (一九三二年十月號)
菊判十四ページ・刷色墨
目次		387
仲間 〔河上徹太郎/井伏鱒二〕[*隨筆]  	深田久彌	387−389
有名と無名と[*時評]  	中井 鐵	390−391
秋風とともに[*時評]  	今井達夫	391−394
[『モダン日本』全頁廣告]		[393]
雜文[*評論]  	藤崎 寛	394−396
ワルプルギスの夜の夢――文壇狂騷曲――[*戲文]  	東方七郎	396−397
論客漫論――人と酒――[*戲評]  	中野晴介	397−400
[『オール讀物號』三行廣告]		400
婦人サロン實話大募集[*廣告]		400
附録 文壇ユウモア (一九三二年十一月號)
菊判十ページ・刷色墨
石濱兄弟の問題*  	氷川 烈	327−328
兄の爲めに辯ず――氷川烈氏に――  	石濱金作	328−329
新進文壇グラフ[*時評]  	巽 二郎	329−330
奈良日記抄――志賀直哉先生のことなど――  	尾崎一雄	330−333
論壇の戰慄[*時評]  	中道左右吉	333−335
近頃文壇之事仄聞[*ゴシップ]  	大久保一平	335−336
實話募集[*『文藝春秋』本誌より募集] 		 336
*	『文藝春秋』十月號掲載の氷川烈「書齋マルクス主義者の一群」の訂正。末尾に「氷川氏の原稿は石濱
     金作氏原稿と同時に寄稿された事を附記す/(編輯者)」とあり。
*	この號より附録卷頭の目次無くなる。

附録 文壇ユウモア (一九三二年十二月號)
菊判十ページ・刷色墨
文壇檢非違使[*時評]  	乾 四郎	327−328
名歌いろ現代評歌[*戲文]  	説人不知	328−330
昭和七年同人雜誌回顧	參田九郎	330−331
大衆文藝夜話  	丹下左膳	331−333
論壇の戰慄(その二)  	中道左右吉	333−335
リベルテ同人に  	雀 天野	335
大衆作家への抗議[*戲評]  	冥土にて 吉愚庵鐵眼	335−336
フアツシヨ文學行進曲[*替歌]* 	 [無]	336
*投稿、末尾に「(住所――氏名御通知を乞ふ。編輯者)」と附記。

附録 文壇ユーモア (一九三三年一月號)
菊判八ページ・刷色墨
返答、其他〔乾四郎君に/家の事/大衆作家自戒の年〕 	直木三十五	409−412
壽大盃[*戲評]  	一心讀助	412−413
豆戰艦のお芝居[*評論]  	荒川放水	413−415
文壇人氣論 作家の人氣とは?‥‥[*評論]	中野晴介	415−416
原稿募集*  	[無]	416
*「廣く讀者諸氏から文壇ユーモア欄の原稿を募集します。」

附録 文壇ユーモア (一九三三年二月號)
菊判八ページ・刷色墨
川端康成君に  	直木三十五	345−347
文壇縁日夜景[*戲文]  	豆潜艇	347−348
文壇蟲眼鏡[*時評]  	寺島辰次郎	348−349
大衆作家五氏に與ふる書	紫式部	349−350
幽靈の化の皮を剥ぐ  	冥土にて 眞物の鐵眼*	350−351
文壇成金物語〔近松秋江〕 	 [無]	351
仲間 〔小林秀雄〕[*隨筆]  	深田久彌	352
* 	鐵眼は天田愚庵(歌人・『東海遊侠傳』作者、一九〇四年歿)の僧名。十二月號の鐵眼を名乘る一文
	に訂正。末尾に「(註―筆者の住所至急御報知あれ。)」と附記。これに對し翌々四月號には最初の
	鐵眼が再登場。

附録 文壇ユーモア (一九三三年三月號)
菊判八ページ・刷色墨
愛國的といふこと〔一、愛國的/三木清のひようせつ〕	直木三十五	329−331
文壇メリー・ゴー・ラウンド[*ゴシップ]  	相良武勇	331−333
文壇ヴァラエテイ[*戲文]  	谷 淨次	333−334
青龍刀その他[*時評]  	他多與志	334
文壇成金物語〔一、加藤武雄/二、泉 鏡花/三、中村武羅夫〕 	[無]	334−335
新刊紹介〔近代大阪(北尾鐐之助著)/近代名曲解説(柿沼太郎著)〕*  	(西村)	336
[『オール讀物號』廣告]		336
* いづれも創元社刊。續く次ページ表3(裏表紙の内側)は『近代名曲解説』の全頁廣告。

附録 文壇ユーモア (一九三三年四月號)
菊判十二ページ・刷色墨
直木三十五に答ふ*  	杉山平助	405−406
二つの繪の筆者に答ふ**  	下島 勳	406−407
文壇走馬燈[*ゴシップ]  	相良武勇	407−409
大衆文藝でたらめ考  	第一世 愚庵鐵眼	409−410
動くプロ文壇 〔小林多喜二/林と小林〕  	春野 遠	410−412
[『モダン日本』全頁廣告]		[411]
室内園遊會風景[*戲文]  	[無]	412
街頭の聲[*戲文]***  	[無]	413−414
「食ふ」「食へない」の問題[*隨筆]  	立野信之	415−416
*「先月の本欄で直木三十五が僕に何か噛みついてゐるからそれに一寸應へておく」。
** 下島勳「「二つの繪」の誤りを訂す」が『文藝春秋』二月號掲載、これに著者の小穴隆一が『時事新報』
	で反駁したので、再批判を投じたもの。
*** 投稿。文末に「(乞住所御一報)」と附記。

附録 文壇ユーモア (一九三三年五月號)
菊判六ページ・刷色墨
弔歌二題 〔豆戰艦弔歌/青龍刀弔歌〕[*狂歌]  	瀧 亡羊	347
文壇成金物語  	國銭爺	347−350
[『モダン日本』全頁廣告]		349
新刊豫告案内[*戲文]  	丙波三郎	350−351
女性身上相談[*戲文]  	園 輝逸*	351−352
新刊紹介[『澄江堂遺珠』『寶雲』『萬葉集講座』]  	(索)**	352
よろづ案内  	[北日本評論内K生]	352
*	「園輝逸」は寺崎浩の筆名。掛野剛史「寺崎浩著作目録」論樹の会『論樹』第十八號(二〇〇四年十二
	月)、寺崎浩『青の時』(現代書房、一九六五年十二月)141頁、參照。
**『澄江堂遺珠』のみ「(索)」と署名あり。佐佐木茂索か。

附録 文壇ユーモア (一九三三年六月號)
菊判八ページ・刷色墨
番外手帖[*評論]  	石濱金作	329−332
[『モダン日本』全頁廣告]		[331]
仇なさけ[*隨筆]*  	辰野九紫	332−333
詩[*詩]  	高橋新吉	333
ブンダンゲツプ・サーカス見物記[*漫才]	志々充六
 		乙戸清七	334−336
* 前々號「文壇走馬燈」で觸れられたのに關聯して。

附録 文壇ユーモア (一九三三年七月號)
菊判十ページ・刷色墨
焚書への抗議を嗤ふ[*隨筆]  	直木三十五	391−394
酒卓の歌[*詩]  	丸山 薫	392−393
文學放談[*時評]  	西方六郎	394−396
[『文藝創作講座』全頁廣告]  		395
新刊豫告[*戲文]  	[無]	396−397
ある日の『天狗俳諧』[*隨筆]  	高田 保	397−400
明治文學一資料[*隨筆]	可兒廣見	400

 以後休刊。通計全二十八號。

(もり やうすけ、本學大學院博士後期課程)

(『日本大学大学院国文学専攻論集』第2号 2005.9.30)