校正癖
 あるいはコレクトマニア綺譚


やむにやまれぬ校正魂――校正者はそれを我慢できない

校正で一家を成したといへば屡々「校正の神樣」の異稱で有名な帚葉神代種亮(一八八三〜一九三五)が擧がるが、岡野他家夫たけを『書國畸人傳』桃源社、一九六二年六月)に列せられた外、近年なほ話題となること少なくない*1ので、永井荷風ら文壇人士との交遊とか明治文化研究會での活動とか、いまさら細説には及ぶまい。ただ、あまり神さま扱ひした傳説ばかりでは一邊倒だから、その裏に惡評も潛んでゐたことには注意が要る。たとへば次のやうな記述も、よく讀めば、いささか皮肉な語氣が透けて見えないか。

誰の発想かは知らないが、神代を校正の神様といふ言葉が通用され初めた。元来彼は文壇人ではなかった。[…中略…]

なぜ、校正の神様なのか? 頼まれないのに、大作家の著書をつぶさに点検し、誤字や誤植を見つけては、その作家に送りつけた。大作家を始め数多くの作家を知己に持ってゐたのはこの為めであった。作家たちは、神代の力量を認めて、次の著作には彼の校正を求め、自然と校正に関する権威といふ風に扱はれ出し、何時か神様の尊称を呈上された。[…後略…]

――廣瀬千香『私の荷風記』(〈こつう豆本〉日本古書通信社、一九八九年十月)59〜61ページ

これをもっと直截に、「神代種亮には逍遥や荷風と格別に昵懇なのだと、装う癖が度を過ぎて強かったのではないか」と勘繰るのは谷沢永一『文豪たちの大喧嘩――外・逍遥・樗牛(新潮社、二〇〇三年五月、89ページ)で、これは永井荷風『斷腸亭日乘』卷十六の記述を傍證に引いて推察してゐる。さらに同書卷末の「谷沢流登場人物・事項コラム」には、項を立てて次の通り述べる。

神代種亮こうじろたねすけ 校正家、とでも言うより仕方のない畸人伝中の人。校正の名人と自称して知名の文士や学者などに擦り寄り、ひとかど文人として振舞う、この世界に何時の時代にもよくあるタイプである。[……]

――谷沢永一「谷沢流登場人物・事項コラム」『文豪たちの大喧嘩――外・逍遥・樗牛

なるほど、多分それが一半ではあったらう。特に後年、人たる身で神樣呼ばはりされるやうになってはつけ上がらずにゐる方が難しからう(それゆゑ後には荷風からも疎んじられたりする)。けれど、取り卷き連の知友氣取りはよくあることでも名士に近づくに校正を以てすることは誰でも能く爲す所ではないし、はじめ頼まれもせぬうちから正誤を送りつけた初心までを賣名心のみと取るのは酷である。それは作家に取り入る魂膽もあったかしれないが、他面で校正者の性分として、思惑拔きに、間違ひを見つけると默ってをられないといふことがある。それが愛讀する書であれば、なほさら。むしろ普通は著者に誤謬を細かく指摘すれば嫌はれかねぬものを、歡迎されぬと知りながら訂さずにおかない、已むに已まれぬこの氣性。それが、校正癖といふものではないか。必也正名乎かならずやなをたださんか(『論語』子路第十三)

正しすぎる――無性に正しいことのをかしさ

校正癖の昂ずる所、畸人とも言ふべき奇態な人間類型が現はれるのは、愛書狂に同じい。コレクターシップ collectorship*2といふ語でも語られる蒐集家コレクターの奇行ぶりは殊に書癡ビブリオマニアにおいて著しく、本好きならば斎藤夜居『コレクトマニア奇譚』(愛書家くらぶ、一九七〇年)といった書名なぞ聯想する所だらうが、それとは別の correctorship、謂はば校正者氣質かたぎが、あるわけだ。倉阪鬼一郎『活字狂想曲』(時事通信社、一九九九年三月→〈幻冬舎文庫〉二〇〇二年八月)に至っては、校正者は殆んど奇人變人の範疇に屬する……同書は、初版副題に「怪奇作家の長すぎた会社の日々」とあった通り、印刷會社の文字校正職として勤續十一年に及んだ體驗に基づく輕飄な漫文である。

さあれ、かの神代種亮とて元來校正業が本職に非ず、この性向は何も職業プロ校正者――字義通りのproofreader*3(ゲラ讀み)においてのみ專有される職業病ではなく、一般讀者 common readerの裡にもその分子が潛在する。辭書事典を愛讀する類がそれで*4、或いは、かつてなら『言語生活』誌の「目」欄に投稿したり(cf.佐竹秀雄編『言語生活の目 書きことばメモ帳 1951―1988筑摩書房、一九八九年七月)近頃なら高島俊男『お言葉ですが…』(『週刊文春』連載一九九五〜二〇〇六年)に對し投書したりするやうな熱心な讀者も、さうだ。「趣味としての摘発――誤記、誤字、誤植をあげつらう」とは、呉智英が夫子自ら謂ふ所(『インテリ大戦争』JICC出版局、一九八二年三月→新裝版〈宝島Collection〉一九八四年一月・副題「知的俗物どもへの宣戦布告」→洋泉社、一九九五年二月、所收)。また言語學に謂ふ過剩修正 hypercorrection(過剩矯正、過訂正とも)、「ら拔き」の反動による「ら入れ言葉」(「〜れる」でよい語まで「〜られる」に直す)等に見るやうに、時に正し過ぎるほど「正しい言葉」へ向ふ規範意識は世に根強いものがある。かかる書字書物に對する徴候が募れば、結句これまた別種のコレクトマニア correctomania――即ち校正癖となるわけだ。讀書人の業と言ふべき乎。

恐らくこの性癖に同情シンパシーの無い者からは、誤字誤植の摘出など粗搜しか重箱の隅つつきとしか思はれまい。マックス・ウェーバー『職業としての学問尾高邦雄譯、岩波文庫、一九八〇年改譯)が言ふ「第三者にはおよそ馬鹿げて見える三昧境、こうした情熱――つまり「たとえばある写本のある箇所の正しい解釈を得ることに夢中になるといったようなことのできない人は、まず学問には縁遠い人々である」(よく引かれる有名な箇所だ)といった事情は、校正癖にても變りない。イヤむしろ、ウェーバーにとっての學問(Wissenschaft=科學)とは校正者型氣風エートスの延長上に語られるやうなものでしかなかったのか? 實の所、學問的な本文校訂と雖も一字や二字の異同で内容全體の讀みにまで影響を及ぼす例はさうさう無い*5のだから(寫本でなく版本なら猶のこと)、異本を集覽し仔細な校異の照合に血道を上げてもおよそは無駄骨折りで、效率からすれば、自己目的化した空虚な妄執とも言はれよう。「是れ有る哉、子の迂なるや。なんぞ其れ正さん」(『論語』子路第十三)……訓詁學者が誹られる所以*6。だが、實益の無いこと、どうでもいいやうなことに好んで沒頭すること、そこが趣味の要諦である。畢竟ここにおいては、學問は道樂に等しい。不如樂之者これをたのしむものにしかず(『論語』雍也第六)

叱られるだらうか。道樂なんかでない、さう憤りさうな人に、本文批判の學を極端に推し進めた古典學者アルフレッド・エドワード・ハウスマン(一八五九〜一九三六)がゐる。學識超凡を以て畏敬された彼の、「精確さは義務であって、美徳ではない accuracy is a duty, not a virtue.」といふ冷嚴なる名文句は、E・H・カー『歴史とは何か清水幾太郎譯、〈岩波新書〉一九六二年三月、7ページ)にも引かれて多少知られてゐよう。ケンブリッジ大學ラテン語文學教授であったハウスマンは、「文学の研究は科学であって文学ではないと断言し、批評(これは文学)は学者の務めではなく、またできることでもないと言って(言っただけではない、彼は身をもって、生涯ラテン文学作品の文献学的研究、とくに本文修正emendationに専念し、それに関するモノグラフばかり二〇〇篇近くも書き、それ以外の著作は一切しなかった)、当時のケンブリッジに大きな波紋を投じた(柳沼重剛「文学と文学でない文――文学でもある歴史について『西洋古典こぼればなし』〈同時代ライブラリー〉岩波書店、一九九五年十月、36ページ)

A・E・ハウスマンといへば本分の古典研究よりむしろ一般には詩集『シュロップシャーの若者』A Shropshire Lad(一八九六年初版)によって、特に第一次大戰頃は青年に愛讀された詩家として知名であり、學匠詩人ポエタ・ドクトゥスといふなぜか英文學關係に見掛けやすい一類型タイプに當るわけだが、學者としてはその文學性が學問の仕事に口出しせぬやう極力抑へ込み、それ故にか、變物ぶりを示す逸話も多い*7。何せ、「文学の研究者は文学的気質をもっているから、それによって本文批判が曇らされることがないように」「研究の対象は二流以下の詩人にすべきだと、まじめに考えていた(柳沼重剛「二人の古典学者――文学を研究するということについて」前掲書109ページ)……といふのだから、凄まじい(そして、どこか、をかしい)。斯くも戲畫的なまでにストイックな學者らしさscholarship、それは多分にcorrectorshipでもある(その狂直なること、いっそcorrectomaniaでさへあるか)。頑なに本文批判のみを文學に就ての學問(科學)と認める偏狹な學風を貫いた、その理由は、「こっちが細心の注意を払いさえすれば、過ちを犯すことが最も少なくてすむ分野であるはずだということにあった。彼に言わせると、その本文批判でさえ、小さな論文一つ書くだけでも、ついうっかり誤りを見過ごしてしまう恐れがあるのに、単行本など書いたら誤りだらけになるに決まっている、というのである(同上114ページ)

其の過ち寡なからんことを欲して未だ能はざる也(『論語』憲問第十四)。それほどに謹嚴これ努めたハウスマンであったが、柳沼重剛の見る所、この世紀の大學者にしてなほ過誤を免れなかった。皮肉なことに、常識を棄てるなと説いてをりながら「常識で考えれば少しもおかしくない文(あるいは句)を含んだ箇所を、うっかりおかしいと感じてしまうことが彼にはあったらしい。そうすると、ラテン詩人とラテン語に通暁していて、本文修正の経験も十分に積んでいる彼の頭が、見事というほかない修正を提案する。それを見ただけで、頭の良さが表面に光沢を放っているような感じの修正がなされている。しかし、元のままでも、つまり修正などしなくても、十分いい文句ではないかと素直に思える、そういうことがよくある。一般に、専門家が専門に徹すれば徹するほど、この危険がつねにつきまとうものだと思う(柳沼前掲書120ページ)。これ過誤と言はんか、或いは亦、過修正 hypercorrectionならずや。過猶不及すぎたるはなほおよばざるがごとし(『論語』先進第十一)

ここには、禁慾的自制を突き詰めた擧句、却って己が分際を越えた餘計な差し出口をすることになってしまふといふ逆説がある。そこに、校正癖を感ずる。校正とは、本文に寄りつつ本文を疑ひ、テクストに添ひつつテクストに逆らふ作業である。本文批判も亦然り、同定を重ねた果てにこそ改變に至れる。對象と不離不即の關係になければならず、消極的(否定的)且つ積極的(肯定的)なのである。同樣にして、學者にして校正癖の主にとっては、趣味とは別に學問があるわけではなく、これまた兩者は不二不可分の關係だらう。校勘學者の傳に屡々見る寧日無き勤勉は、宛も道樂に耽り寢食忘れる如し。この古書校勘の學は日本では契冲以降に發達したが、遂には平田篤胤『古史成文』の如き狂信的復古主義による僞作本文をも見た事から解るとほり、校訂が行き過ぎると、「正しさ」に執着するあまり獨斷的な理想を託した「原文」に改正してしまふ陷穽があるわけ。述而不作、默して之を識す(『論語』述而第七)とは、文獻學者にとっても容易でない。校正の賢しらによる直し過ぎの盡きぬ次第。

Only Correct!――ただ校正さへすれば

校正癖を、幾つか事例に即いて見てみよう。

この偏癖の主は正誤表を愛す。以前、或る人の書架で見た寺島珠雄『私の大阪地図』たいまつ社、一九七七年)は著者寄贈本で、開くと葉書が挾まってをり、正誤が數行印刷してあった。ハガキ料金二十圓の時代だったとはいへ、定價千圓の新書判の薄い本に對し一々こんな訂正を送付してゐては、足が出ること必定。著者の負擔によって損得拔きでこれを行なった所がいかにも、岡本潤や小野十三郎らアナキズム詩人に就ての精査で知られた寺島珠雄らしいと感じ入った。聞く所によると、根掘り葉掘り調べられた小野十三郎は最初は氣味惡がってゐた程だが、そのうち自分でも忘れたことは寺島に訊くやうになったとか。その追跡考證における細部ディティールへのこだはりは、遺著南天堂 松岡虎王麿の大正・昭和皓星社、一九九九年九月)によく看て取れ、評者をして「はじめはうるさく思えるほどの正確さへの意志も、読み終えると、著者の静かな熱意に思えて胸うたれる」と言はしめた富岡多恵子胸うつ正確さへの意志朝日新聞』一九九九年十一月二十二日夕刊)。かういった考證癖――校正癖をその一端とするやうな――は、およそ迂遠に見える穿鑿の中にも事實そのものに物を言はせた直言の辛辣さを含むのが妙味で、多分は研究對象が文學なるが故のアマチュアリズムの良さが發揮されたものか、福田久賀男や和田利夫(個人誌『けいろく通信』を見よ!)ら在野の文學史家にも通有するものが見受けられ、また、學者先生にも忌憚無く誤用誤讀を諭した古書店主・品川つとむもこれに類しよう(cf.『古書巡礼』青英舎、一九八二年三月→新裝再刊一九九一年十一月)。となれば、文學ならぬ民間史學などとて同樣の例があらうか。

似た話を、教へられて讀んだ。渡邊勲「手作りの正誤表」朝日新聞』二〇〇六年二月一日夕刊。筆者は東京大学出版会の元編輯者、文化面「こころの風景」欄に連載したうちの一篇である。それによると、中國史研究の田中正俊は、酒席で多辯だった「一方、仕事には厳しかった。原稿は端正な文字で埋まり、校正も厳密で誤植一本許さず、だった。」「『中国近代経済史研究序説』(73年)を上梓してから、私は呼び出しを受けた。先生は誤植がありましたと手作りの正誤表を示し、私の責任ですと言われた。先生が書店の棚に自著を見つけられると、そっとそれを挟まれていた、と後に知って、私は驚愕し感動した。――それぁ愕きもしよう。何やら「ちょっといい話」みたいに綴られてゐるけれども感動する所ではない、本屋さんで勝手に挾み込みをしてゐてはこれ即ち不審客で、私物と賣り物との辨へがついてない越權行爲、領域侵犯である。しかし氣持ちはわかる。過則勿憚改あやまてばすなはちあらたむるにはばかることなかれ(『論語』學而第一)。たとひ瑣細な誤脱であれその儘に放置できなかったのだ。要は、さうせずにはゐられないからするので、いささか強迫觀念オブセッションめいた訂正衝動に驅られてゐる。これくらゐならまだしも、歴史學者らしいやと笑ひ話で濟む方か。その盲目意志の然らしむる所、踏み越えた修正ぶりは自著のみに留まらず時に他著にまで及ぼされることあるべし(學術誌の書評にたまに見られる批判文、中でも烈しく訂正を迫るものなど想起せよ)。

實際、校正癖のとりことなって溢れる欲動の趣くままに任せてゐれば、狂氣の域にまで達しよう。例へば第一書房に一九二九年春から三一年末にかけて在社したことのある福田清人きよとが、そこでの先輩社員の行跡を書き留めてゐる。

酒井さんという校正で半生をすごしてきたその道のエキスパートが、近代劇全集のかかりであった。この酒井さんは、新聞をみても、内容より校正のまちがいを見るということに関心を持っていた。デスクの校正のひまには、新聞の校正をしていた。そして我々に示した。

「債[ママ][債券]の当選番号の校正がいちばんむつかしかった」

とか、

「デパートのショウイ[ママ]ンドーの広告の文字が間ちがっていたので、事務所へ行って注意してきた」

とか、この世の一切は校正のあやまりからおこるように、酒井さんは、あらゆる不義不正より、校正のあやまちを憎悪するかのようであった。それはほとんど病的なくらいだった。酒井さんがついに発狂したのは、それから三年ほど後だった。

――福田清人「昭和文壇私史」*8『近代の日本文学史』(春歩堂、一九五九年、283ページ)

福田は後年第一書房 長谷川巳之吉日本エディタースクール出版部、一九八四年)に寄せた回想でも酒井の姓しか出してないが、酒井欣といふのがその名であった(『日本遊戲史』著者とは單なる同名異人か)。これは竹松良明セルパン・新文化 解説(『国立国会図書館所蔵 セルパン・新文化 別巻アイ アール ディー企画、一九九八年十一月、7ページ)が第一書房のPR誌『伴侶』(一九三〇年一月〜三一年三月)を參照しながら同定してゐて、同誌「社中偶語」欄が綴る社内風景には「大衆作家の酒井欣が江戸の風物や文学に寄せる熾烈な憧憬」なども見える由。

同じ頃のこととして美作みまさか太郎が、「出版社には多くの場合、少なくとも一人は、校正の神様といわれるような人物がいた」と言って、一九二七年入社時に日本評論社編輯部にゐた岩下三郎といふ校正擔當者を回顧してゐる。「寡黙で、はにかみやで、いつもやや猫背になって机に向かい、」「校正の中にだけ生きがいを見出だしているのではないかと思われるくらいであった」と。また、同社刊『明治文化全集』(一九二七〜三〇年)の校閲をしてゐたのが社外の神代種亮、「この人などは神様の中でも当時第一人者であるといわれていた」、とも。「この呼び名は、校正の練達者、権威者、ヴェテランに対して、一応の敬意と少しばかりのからかいを籠めて作られたものかも知れない」……美作太郎戦前戦中を歩む 編集者として日本評論社、一九八五年十一月、195〜196ページ)。美作の謂ふ、そのやうな神々の「眷族に列していた」一人が、第一書房においては酒井欣であったらしい。

點檢チェック症とでも言はうか、福田清人の見たこの編輯者もまた職分を踰越して校正をし、さらには社會の惡を滅せずばやまぬ正義感にも似た熱意に燃えて巷間の誤記まで糾してゐたわけだが、如何せん、その誇大なほどの情熱の注ぎ先として區々たる文字では小事に過ぎ、均衡を失してゐた。曰く、世の一切の不正は校正の誤りより生ず……故に、ただ校正しさへすれば全て惡事は正されるわけだ! Only correct!(E・M・フォースターもぢりで言へば) この倒錯した文書至上主義は、末路と相俟って、一讀忘れられぬ印象を殘す。文字通りの編輯狂=偏執狂であって、これに比べれば松田哲夫『編集狂時代本の雑誌社、一九九四年十二月→加筆改稿〈新潮文庫〉二〇〇四年五月)とて譬喩でしかない。蓋し正名の極まるや、つひに狂言に轉ず――但しこれまた字義通り、演戲性拔きの「()言」だがcf.大室幹雄『新編 正名と狂言 古代中国知識人の言語世界せりか書房、一九八六年十月)。發狂したといふのは、察するに、誤字と讒謗されたことを怒る文字の精靈に憑かれて復讐を受けたのでもあらうか。この痛ましき「文字禍」の犧牲者に、合掌。諸惡莫作、專修念校、只管校正あるのみ。

校正癖も極まれり――博士と狂人の間

校正癖のエピソードは他にもあらうが、校正氣質と狂氣との親和性如何を知らんとせば、くれ秀三(一八六五〜一九三二)に就かざるべからず。言ふ迄もなく本邦精神醫學(當時は精神病學)の建立者であり、親友・富士川游と共に醫史學(醫學史は通稱)の開拓者でもある。その醫學博士呉秀三が、管見の限り、最も校正癖が昂進した症例の一つなのである。岡田靖雄『呉 秀三 その生涯と業績(思文閣出版、一九八二年)を讀むと、校正に偏した性癖が窺はれて興味深いので、拾ってゆかう(以下ページ數のみ記すは岡田著より)

まづ校正癖は索引において發現しやすい(品川力がさうだった)。呉秀三にも『東京醫學會雜誌第一卷乃至第十卷十年間原著索引』(一八九七年)の編があり、助教授の頃に單獨で成したらしい。これが「詳細を極めて居」るのを見て、石川貞吉は「先生の篤學篤志なるに肅然襟を正すの感を覺へた」とか(「呉先生の追憶斷片」『呉秀三小傳』呉博士傳記編纂會、一九三三年。岡田著130ページ)。その『索引』より「凡例」の一部を引いてある(131ページ)のを見ると、面白い。

一 医語ノ音読ノ誤レルモノハ之ヲ正シタル順次ニ入ル例ヘハ橈骨、虫ハ「た」ノ部ニ出タシ蟯虫、軟骨ヲ「せ」ノ部ニ出タシ腓骨ヲ「ひ」ノ部ニ出ダシ齲歯ヲ「く」ノ部ニ出スガ如シ又脚気ノ如キハ俗音ニテ「かっけ」ト読ムハ誤ニアラザルガ故ニ「か」ノ部ニ出タセリ

漢和辭典に據って註解すると、橈は慣用音タウで漢音ダウ・ゼウ呉音ネウとあるがゼウを訛音としたか(大修館『大漢和辭典』はゼウを採らず。他方、『広辞苑 第五版』は「とうきゃく-るい【橈脚類】」の空見出しを立て「(橈じようの誤読)」と註記す)、は慣用音デウ漢音タウ、蟯は慣用音ゲウ漢音ゼウ、軟は慣用音ナン漢音ゼン、腓は漢音ヒのみだがハイとでも讀まれてゐたか、齲は慣用音ウ漢音ク。これが、謂はゆる醫者仲間の百姓讀みの例として、口腔(コウカウ)をコウクウ、洗滌(センデキ)をセンデウと發音する類を指摘するのだったら珍しくもないが、慣用音まで訛誤と斷じ訂してしまふとは漢學の素養深かった呉秀三ならでは、なるほど、「學界其人を得ずんば決して出來た仕事ではなかつたのである」(前掲石川貞吉)。たとひ排列が少々檢索の便を損なはうとも正音を優先したわけ、ひたすらに正しい。正しすぎる。

かうした嚴格さは、日常業務にも貫かれた。府立巣鴨病院(のち移轉して松澤病院)の醫員に對して、病床日誌は掻い撫でのドイツ語でなく日本語で具體的に書くやう指導すると共に、「これに関連して、誤字にはずいぶんやかましく、一いちなおされ注意された。人によっては、先生[呉秀三]の注意をお叱言とうけとったが、先生は一つには親切心から注意された、また漢学に通じすぎていたためである。「」もつくりのしたは「月」でなく「円」でなくてはならぬとやかましかった」と(304ページ以下)。手書きのカルテですら字畫を忽せにせず、正字體(康熙字典體)に改めさせるこの徹底性。江守賢治『解説字体辞典(三省堂、一九八六年)謂ふ所の書寫體楷書の傳統など、何ぞ我にあらんやと言はんばかりだ。「文字・文章なども、精密に正され、例へば私が原稿中に身体といふ字を書けば、先生は必ず體と直された。又聽は耳できく(ヽヽ)事で、聞は噂にきく(ヽヽ)事であるとかいふ事を教へられたのである」(森田正馬「呉先生の思ひ出」前掲『呉秀三小傳』119ページ)

普段仕事で執筆する書類には、精神鑑定書もあった。「呉先生を偲ぶ夕」(『日本醫事新報』第八六九號、一九三九年五月六日)から氏家まことの談話が引かれてゐる(403ページ)

それから先きほどから校正の話が出てをりますが、巣鴨病院に行くと先生の秘書役みたいなものを仰せつかつたのであります。四、五年間先生の鑑定を下書きしました。いろ〳〵書いて先生に上げるとそれをお訂しになることは実に沢山あつたのです。文章が朱で真朱になるのです、それをまた清書するのです。兔に角僕が書いたのか先生が書いたのかちつとも分からないのです。それを最後に須山君が清書するのですが、何時も困つてゐました。

原形を留めぬほど幾度も繰り返し校正するのが呉秀三の嗜癖のやうだ。森田正馬まさたけ「呉先生の思ひ出」によれば、講義ぶりも「枝葉に互つて委し過ぎたといふ風であつた」(岡田著273ページ所引、「互」の亙ならざるは引用ママ)と言はれる位だから、校正中毒ときては甚だしく、「何かにつけて先生の氣に向かれた時は、隨分・懇切・丁寧に修正して下されたのである。私が巣鴨病院の看護人・講習規則の原案を起草した時には、五六回も清書を命ぜられて、結局は初めの案に逆もどりしたやうな有樣になつた事もある」(岡田著404ページでは「気の向かれた」と誤引)、「私の學位論文神經質の本態及療法などに就ては、先生がお氣に召されたと見えて朱筆を加へ、それを消しては又加へられて、紙面が眞赤になる程に加筆して下さつたのである」(375ページ)とのこと。門弟にとっては畏るべき赤ペン先生であった。

いやはや、まだまだ、ここ迄は序の口のみ。普段ですらこれだから、特別に念を入れた校正はどうなるか。『呉教授莅職二十五年記念文集』(一九二五・二八年)*9が編まれた時の熱中具合は呆れんばかりだ。門下で編輯に當った杉田直樹の發言が「呉先生を偲ぶ夕」から引かれてゐて(372ページ)、寄せられた論文は呉秀三によってかなりの添削修訂を經たといふ。

〔前略〕さうしましてから後に先生は、此の論文は全部自分が祝ひに貰つた論文だから、手を入れようが入れまいが自分の勝手だと御つしやいまして朱筆を一々お入れになる。私はこれは記念として寄稿して貰つたものですから、文句をお直しになるなら一応原著者に話しをなすつては如何ですかと申しますと、自分が貰つたんだから自分の勝手だと仰つしやつてお直しになつた。森外先生のものなどは、之は面白くないから外先生のところへ行つて外のものを書き直して貰つて来いといふ様なことを言はれた。私から外先生へそんなことを申上げるのは幾らお使ひ役だと言つても出来ませんから、呉先生に書面を一本書いて下さい、さうしたら本当のお使ひ小僧になつて私がその御手紙を持つて行きますからといつて、御手紙を書いて戴き、それを持つて行きましたら、外先生は手紙をつけて返して来るのは非道いが、まあ書き直さうと仰つしやいました。その外長與[又郎]先生のもの、これも大分文章をお訂しになりました。ところがその当時私は病理学教室へも出入してをつたのでありますが、長與先生は病理解剖の記述を勝手に訂されては困ると言はれました。ところが呉先生は、自分に呉れたものだから自分が勝手に文章を訂していゝのだといふやうなわけで、呉先生がお手を入れられたものが記念文集に載つてをる訳であります。〔後略〕

つまり呉秀三の場合、校正から一歩進んで校閲に入ってをり、よくある名義だけの校閲監修者と違って眞に字句文章の推敲に踏み込み、時として著者の領分を侵す僭越すら敢へてした。漢學者流の文章道への傾倒と見るにしても、度外れである。他からの寄稿を私物化するに近いが、改稿の繁なるは自分の文章も同樣、恐らくは吐いた語を口中で反芻する如く、書いた端から讀み直してしまふ所爲だと思はれ、やはり書き手としてより讀むことに偏した校正癖なのではないか。しかもそれは、何か我が爲にする所があっての改竄ではない、無償の、否むしろ損をかぶってもの、校正慾の發動であった。岡田靖雄著に曰ふ(373ページ以下)――

記念文集の発行がおくれたのは、先生の責任のようである。第一冊の「凡例」に「校合は一々著者を煩はさず、編輯委員の手にてなしたるもの少なからず。魯魚の誤り若しあらば、幸に寛恕あらんことを請ふ」とあるが、杉田はまえの引用文につづけて、「あの記念文集を一つお作りになるのが非常にお楽しみのやうに見受けられましてその校正に就きましても、御自身で殆んど校正刷を新しい原稿に書きかへる位すつかり字を入れかへ、またその次の校正刷を新しい原稿に書き直して了はれる。完全にお気に入るまでは決して校了になさいません。十遍ぐらゐの校正で済むのは寧ろいゝ方です」とかたっている。また記念文集は、祝賀会[一九二二年十一月]のときの醵金で発行されたが、おおきくなりすぎまた物価騰貴のため醵金では印刷代がまかなえず、第一冊、第二冊とも各二〇円でうられている。ところが、呉建が「夕」[「呉先生を偲ぶ夕」]でのべたことだが、印刷所の杏林舎に訳のわからぬ借金がのこっていた、しらべると、あの文集のときの校正代で、叔父がいつまでも校正をやめぬので杏林舎から、それではあの金ではたりぬ、といったところ、叔父は校正代は自分ではらうからいいだけ校正するといい、校正代に一万何千円かかり、そのうちの何千円かだけが支払いずみであった、ということである。一万何千円かといえば、当時の普通の給料取りの一〇年分の稼ぎよりおおい、それをこの記念文集(あるいは、ほかの著作の分もはいっているのかもしれないが)の校正についやすとは、先生の校正癖もきわまれり、というしかない。[太字強調は原文]

校正魔だったバルザックは、活版に付してからも未定稿のやうに加筆修正を重ねること夥しかったため印刷屋から超過料金を請求され、さなきだに厖大な負債を嵩ませたといふが、呉の場合、純粹にただ校正道樂で借金をして年收(岡田著340ページ參照)も超したのだから、立派なものだ。となると、呉秀三の醫史學方面での主著である『シーボルト先生 其生涯及功業』(吐鳳堂書店、一九二六年→〈東洋文庫〉平凡社、一九六七〜六八年)中「シーボルト先生其生涯及功業の第二版のはしがき」に、「將又いつもながらの反復執拗なる注文と校正とに厭はず從事されたる吐鳳堂の店員・杏林舍の舍員*10にも同樣感謝すべき義務あるを覺ふ」と記されたのは、通り一遍の謝辭ではなかった。いつもながらの……なんぼお得意さまだとて植字工も音を上げたくなったらう。今の電子組版ではない、版面は鑄造活字を一本づつ組盆ゲラに組付けてゐた時代なのである。いかに「文字に對する潔癖と凝り性」とは言ひ條、「あまり字數がひどく増減されるので活版所も行送りや頁送りの煩に堪へなくなつたらしく、或時校正紙に活字はゴムに非ず云々と文句を書いて來たので、先生も大いに憤激せられたことがあつた」(杉田直樹「呉秀三先生」『東京醫學會雜誌』三一六八號、一九四〇年。精神医療史研究会編『呉  秀三先生――その業績呉 秀三先生業績顕彰会、一九七四年三月、430ページ所引)

されど呉秀三にとっては、常軌を逸した入朱重校も、飽くまで(否、飽くなき?)持ち前の校正癖の欲する所に從った、樂しい作業であったらしい。最後に再た愛弟子・杉田直樹の證言を引く(403ページ)

それで呉先生の校正をなさる時のお顔が呉先生の一番お楽しみな顔なのぢやないかと私は思つてをりました。大学でも机におつ被さるやうにして、紙にお顔を寄せて朱墨をすつて校正なさる、校正をなさる時のお顔は何とも言へないよい御機嫌で、何か外のことで御機嫌がお悪い時でも校正刷を差し出しますと急に御機嫌が直ります。大抵私の手許には校正刷が何時も活版所から届いてをつて、先生御機嫌が悪いなと思ふと、いち早くその校正刷を出して、先生この字が解からないんですが何と言ふんでせうかと言ふ風にお尋ねすると、おうどれ〳〵と言ふやうなことで、校正の役目をしたお蔭で呉先生からたゞの一度もお小言を伺つたことがありません。〔後略〕

校正さへしてゐれば御滿悦だった……! これほどの陽性校正マニア*11は、他に例を見まい。學究肌にありがちな奇矯エキセントリックなタイプにせよ、校正への耽溺では突出してゐよう。

呉秀三の功績の一つに、舊來のやたらに「○×狂」と名づける精神疾患の病名體系から狂の字を避けるやう改革したことがある(「精神病ノ名義ニ就キテ」『神經學雜誌』第七卷第一號、一九〇九年一月。岡田著320ページ、『呉  秀三先生――その業績』154〜155ページ、參照)。つまりは用字改正・譯語選定で、校正好きらしい發案だ。なんだかPolitical Correctnessにうるさい差別語狩りの連中に歡ばれさうだが、されば呉に一典型を見る如きcorrectomaniaなる症候があるとして、それはやはり校正狂でなく、校正癖と稱すべきか。支那に『聊齋志異』狂ひマニア聊齋癖有りと云へる如し(『紅樓夢』氣違ひだと紅迷になるが)。尤も當の呉本人には病識を缺いてゐたらうこと勿論、況して自身の校正癖を、その初期の著『精神病者の書態』(一八九二年)*12の如き文字偏愛フェティシズムの横溢した症例集に入れてみるやうな考へ方は、無かった。いま、この名高き精神病學者を一種の變態心理の人にしてしまったのは、我が好事家流の僻見やもしれぬ。――僻、また癖に通ず。、古此字なし、『正字通』嗜好之病とす。人皆有一癖、我癖在章句(白居易詩)とは『康熙字典』の引例。此病獨未去、しからば戲れ歌を一首。

人ごとに一つの癖はあるものを我にはゆるせ校正のヘキ (擬慈圓)*13


附註

*1

坪内祐三「『東綺譚』をめぐる二人の校正者」『古くさいぞ私は』(晶文社、二〇〇〇年)鶴ヶ谷真一「校正の神様―神代帚葉」『古人の風貌』(白水社、二〇〇四年)、等。なほ青木正美「校正の神様(『古本探偵覚え書』東京堂書店、一九九五年九月)によれば、後藤正兵衛「帚葉山人 神代種亮小伝」『文学散歩』17「永井荷風記念号」に轉載)が最も詳しい傳記らしい。ついでながら、柳田泉の回想文「吉野作造先生と宮武外骨翁(二)(「新版 明治文化全集 月報」No.6、日本評論社、一九六七年九月)が神代についても述べ、「校正で衣食していたが、正直のところ、巧みなのは文字の講釈で、校正の実技はたいしたことはなかった」等と書いてあるのも人柄を偲ばせる、ちょっとイイ話。

*2

長山靖生『コレクターシップ 「集める」ことの叡智と冒険(〈Turtle books〉JICC出版局、一九九二年四月)は好著であったが、増補したちくま文庫版(二〇〇五年一月)で『おたくの本懐』と改題したのは、何としても戴けない。青年論や人生論に近寄ると趣味が失せ、説教臭さが鼻につく。「コレクターシップ」が長山による和製英語で、原語collectorshipでは收税權を意味してしまふのだとしても、生かすべき造語ではなかったか。ほか、類語に擧げられるのは――コレクターとしての営みは、蒐集癖collectomaniaに属するだろう。いっぽうゴミ屋敷に見られるような空疎なモノ集めへのこだわりは、医学用語で蒐集症collectionismと称される。との違いは大きい春日武彦『奇妙な情熱にかられて――ミニチュア・境界線・贋物・蒐集』〈集英社新書〉二〇〇五年十二月、189ページ)

*3

英語correctorが校正者を意味するのは英國用法らしく、現代では修正者・矯正者の語意の方が主か。またproofreader以外では、reviserも校正者・校訂者を意味する。因みに河出書房の月刊『文藝』では一九四七年後期から四八年初頭にかけて短命に終った「れ・び・ぞ・お・る」といふ匿名批評欄(最後二回は署名制に移行)があって、題は佛語reviseurから採ったと覺しく、佛和辭典には「再審者、改訂者、校閲者、校正者」といった語義が列ぶ。これを「レビゾウル」と誤表記するのは當時『文藝』編輯者だった杉森久英の回顧『戦後文壇覚え書』河出書房新社、一九九八年一月)であるが、歿後の遺著である爲か、音の記憶に頼った筆録であって原誌に遡った校合はしてないことが察せられる。……と、そんな瑣事が氣になりだしたらもう、校正癖を患ってゐると言ってよい。

*4

例へば加藤康司やすし辞書の話(〈中公新書〉一九七六年)は、隨筆『赤えんぴつ 新聞づくり三十年』正續虎書房、一九五六・一九五七年)や『校正おそるべし』有紀書房、一九五九年)等の著で知られた校正者が書いたものだった。また現に、辭書研究家にしてフリー校正者といふ境田稔信のやうな人もゐる。その近代辭書コレクションである書香文庫は、國内最大級か。とはいへ校正者だから辭書を集めたわけではあるまい。蒐集の趣味が仕事の實益を兼ねることはあっても僅かと思はれ、大抵、趣味は實務を超越する。辭書コレクターといへば藏書の歿後散佚が惜しまれる惣郷正明もゐたが、彼とて別に校正者ではないし、その『辞典の話東京堂出版、一九七一年)を始めとする數册の辭書本は廣く普通讀者にも讀まれてゐよう。

*5

大屋幸世「助詞一字の誤植――横光利一のために――『書物周游』朝日書林、一九九一年四月所收)を想起せよ。横光利一全集未收録の佚文「一言」(『白水』十二號、白水社、一九三一年四月十日)を紹介した一篇だが、横光はその文中で『機械』(白水社、一九三一年)所收「父母の眞似」の誤植について訂正を請ひ、「でなければ全然一作全部の意味が通じない」と述べてゐる。稀有の例であり、滅多に無い發見であるから、こんな僥倖は望むべくもない。しかも、作者自身の言にも拘らず、「誤植が訂正されれば、解釈はおのずから定まってくるものだが、父母の真似の場合は逆になってしまった」といふのがこの一篇の結論であった。

*6

林達夫書籍の周囲」が、文獻學者への嘲笑を三パターンに述べ直してゐる。うち特に第三の非難、徒らに「やさしい困難」に勞を注ぎながら小異を誇る瑣末事研究の愚が、校正癖にちかい。但し林としては却って、「真理のために真理を求める、利害を超越した純粋なる知識の愛」と「過去の愛」と「自己犠牲と謙譲の徳と」との故に文獻學者を敬愛すべしと(チト大仰な)頌辭を綴るのだが、屡々諷刺される文獻學者の難點は「楯の一面の強調」だとは既に林自身述べた所、當然、これら短所の裏返しの美點とていつ反面に飜るか知れまい。「書籍の周囲」中「一 文献学者 失われた天主教文化――新村出氏の『南蛮広記』を読む――(『文藝復興』小山書店、一九三三年一月→林達夫著作集 6 書籍の周囲凡社、一九七二年一月)參照。

*7

例へば見やすいところで、南條竹則『恐怖の黄金時代 英国怪奇小説の巨匠たち』第4章「ケンブリッジの幽霊黄金時代――M・R・ジェイムズその他」〈集英社新書〉二〇〇〇年七月、を參照のこと。同書で怪奇作家でもないのにハウスマン餘話を出さずにおかぬ南條の心醉ぶりは、早くは「シュロップシャーの若人」(『幻想文学25號研究ノート〉、幻想文学会出版局、一九八九年三月)に述べられ、のち「文学とは何の謂ぞ松浦寿輝編『文学のすすめ』〈21世紀学問のすすめ〉筑摩書房、一九九六年十二月)でもハウスマンに見る詩・學二途のけぢめを談じて印象深かった。また柳沼重剛では、書評文「きわめて異色な本のこと(『語学者の散歩道研究社出版、一九九一年十月)が「本文二五頁、が二二一頁」といふ恐ろしく‘fully documented’であるハウスマン小傳を紹介してゐ、斯の人にして斯の傳あるか、一層興味が増す。この他に柳沼「ドロシー・セヤーズの場合」(前掲『西洋古典こぼればなし』)に言及されたエドマンド・ウィルソンのハウスマン論が面白さうなのだが、いかんせん邦譯無し(“The Triple Thinkers”所收とか)。柳沼に言はせると學者としてのハウスマンに就ては弟子(身分上は同僚)A・S・F・ガウによる略傳のみ唯一推奬に値する由なれど、邦文で讀める傳記書はイアン・スコット=キルヴァート『評伝 A・E・ハウスマン丸谷晴康・小幡武・鈴木富生譯、八潮出版社、一九九八年十一月)しかなく、たしかに格別面白味は無かった。どうも日本ハウスマン協會の方々はじめ詩人ハウスマンばかりお好みのやうで、柳沼重剛みたいにその學者ぶり(の極致!)を論じてくれない。詩を詩的に扱ふやり方を峻拒して文獻學に徹することを自ら課したのがハウスマンらしさだらうに。詩作なんかより、逸話にも窺はれる過度の學問的倫理感にこそよっぽど反語的詩趣ポエジー(否定詩學?)を感ずる。ちなみにトム・ストッパードの戲曲『愛の創造』The Invention of Love(1997)はハウスマンが主人公であり、友人への祕められた同性愛に懊惱する姿が好演されたらしいから、今どきの變態クイア理論よりすれば、いかにもイギリス風の「ホモソーシャルな慾望」(イヴ・セジウィック)が學者たるの道scholarshipと複合してゐた好例と目されもしよう。關聯して、土屋恵一郎の謂はゆる「獨身者」の概念など、『独身者の思想史 イギリスを読む(〈Image Collection 精神史発掘〉岩波書店、一九九三年三月)や『ベンサムという男 法と欲望のかたち青土社、一九九三年二月)では定義が判然としなかったものの、我がハウスマン教授なぞをオックスブリッジ式奇人學者の範例にして再考できようか。その意味ではルイス・キャロルこと數學者チャールズ・ドジソンが知名だが、あれは餘りに少女愛の引合ひにされてきた……よし神話なるにもせよ。理系ならアラン・チューリングだって變人教授で「獨身者」だった(cf.西垣通「機械との恋に死す――アラン・チューリングのエロス――『デジタル・ナルシス 情報科学パイオニアたちの欲望』岩波書店、一九九一年七月→〈同時代ライブラリー〉一九九七年一月)。ついでに本邦に於るその系譜に、古書蒐集でも名高い生涯獨身の書かざる碩學・狩野亨吉や、一高名物教師・岩元禎あたり加へておくがよい。高橋英夫『偉大なる暗闇 師 岩元禎と弟子たち新潮社、一九八四年一月→〈講談社文芸文庫〉一九九三年)では少々持ち上げすぎだが、學者馬鹿アカデミック・フール(馬鹿學者には非ず)の一典型たるこの困った頑固先生は秀才美少年の學生を寵愛したといふし、英文ではなく獨文の教官であり哲學專攻ではあったけれど、高田里惠子の快著『文学部をめぐる病い 教養主義・ナチス・旧制高校松籟社、二〇〇一年六月→〈ちくま文庫〉二〇〇六年五月)が論じたやうに獨文學(者)の世界も、勝れて同性社會性ホモソーシャリティーから成る學校文化を現出してゐた。かつての文獻學がドイツとイギリスで取分け發展したことにせよ、なにも古英語がゲルマン語派の中で古ドイツ語と近縁といふ先祖の誼みばかりでなく、獨英近代の文化的相似關係が素地にある筈。近代日本の教養主義が範を取ったのも、恐らくそこだ。

*8

「昭和文壇私史」の初出は「私の文学修業」の題で『文芸広場』一九五〇〜五七年斷續連載、のち『福田清人著作集 第三巻冬樹社、一九七四年二月)收録時に加筆改稿、引用箇所でも「酒井さん」を「酒井」と呼び捨てにしたのをはじめ小異があるが、ここは直す前の方が好いと思ふ。著作集版271ページと校合すると下記の通り、打消線は削除、下線部が加筆部。

酒井さんという校正で半生をすごしてきたその道のエキスパートが、近代劇全集のかかりであった。この酒井さんは、新聞をみても、内容より校正のまちがいを見るということに関心を持っていた。デスクの校正のひまには、新聞の校正をしていた。そして成果を我々に示した。

「債[ママ][債券]の当選番号の校正がいちばんむつかしかった

  とか、

「デパートのショウインドーの広告の文字が間ちがっていたので、事務所へ行って注意してきた

とか、この世の不正の一切は校正のあやまりからおこるように、酒井さんは、あらゆる不義不正より、校正のあやまちを憎悪するかのようであった。それはほとんど病的なくらいだった。そして酒井さんがついに発狂したのは、それから三年ほど後だった。

なほ初收書『近代の日本文学史』には、「昭和三十七年四月十五日 発行」とする刊記を持つものがあり(東京都中野區立中央圖書館藏)、他に「昭和三十八年四月五日 発行」と稱するもあり、また竹松良明セルパン・新文化 解説(本文前掲)では「昭和35年」としてゐ、貼り奧附なのでそれらが初刊年だと誤らせやすいのだらうが、初版は一九五九(昭和三十四)年十一月刊が正しい。管見に入った限り一九五九年版以外では最終丁に剥がした形跡が見え、奧附のみ貼り替へたのは新刊扱ひして貰ひたい版元の僞裝工作か。

*9

書名に見える「莅職」(リショク、職をつかさどる意)を、前掲岡田靖雄著にて「荏職」と記す(370、372ページ)は字句が意味を成さず、正に魯魚焉馬の誤りと見なくてはならない。國立國會圖書館藏書目録の書名標記では、記念文集第一册(第壹輯、一九二五年二月)を「在職」、第二册(第貳輯・第參輯・第四輯、一九二八年十二月)を「莅職」とする。うち祝賀のための詩歌俳諧和漢文を收めた第四輯(第四部)のみは祝賀會に合せて先に印刷され一九二二年十月發行、その書名を、國會圖書館・大阪市立中央圖書館は「在職」、Webcat東京都立中央圖書館藏書目録では「莅職」とする。また「その内容は一九二八年発行のものとすこしくくいちがうようである岡田靖雄著371ページ)。寔にややこしい。

*10

杏林舍は、醫書出版で知られた吐鳳堂がもと自社印刷所として一九〇七年に設立したもの、現存する同名の醫學書專門の印刷會社はその流れを汲む。吐鳳堂は一九一〇年から別に聚精堂といふ商號でも出版活動を營み、ことに柳田國男の初期著作『後狩詞記』『石神問答』『遠野物語』『時代ト農政』(一九〇九〜一九一〇年刊)が杏林舍・聚精堂の印行であったことから田中正明が詳しく調べてをり、「兄 井上通泰と『遠野物語』」及び「田中増蔵〔聚精堂〕と今井甚太郎〔杏林舍〕(共に柳田國男の書物―書誌的事項を中心として―岩田書院、二〇〇三年一月、所收)に纏められてゐる。またこれらを初出『日本民俗学第177號日本民俗学会、一九八九年二月)第204號(一九九五年十一月)の掲載前に簡約に報告したものに、季刊『地域雑誌 谷中・根津・千駄木其の十八谷根千工房、一九八八年十二月)及び其の四十二(一九九五年三月)所載の文もある。柳田國男が聚精堂に自費出版を持ち込んだのは、歌人にして眼科醫であった次兄・井上通泰の斡旋と推定されてゐる。それに田中論文には觸れられてないが、獨り柳田のみならず民俗學前史の觀點からすれば、高木敏雄の『日本傳説集』(郷土研究社、一九一三年八月)も奧附に「印刷者 今井甚太郎」「印刷所 聚精堂印刷所」とあって共に所在は杏林舍と同番地であったし、これに先立ち高木が吐鳳堂書店から編著『獨逸語入門』(一九一三年四月)を出してゐるのもこの縁につながることと注目してよい(ドイツ語の醫學書との結びつきは言はずもがな)。ほか、石橋臥波の著書『寶船と七福神』(一九一一年一月)も印刷所は杏林舍で發行所が聚精堂、石橋は自分の出版社である人文社(一九一三年二月十一日創立)の印刷に杏林舍を用ゐた(石橋臥波『國民性の上より觀たる鏡の話』〈民俗叢書第四編〉人文社、一九一四年四月、後附參照)。同社は石橋が主幹となって起した日本民俗學會(現在のそれとは別系統)の機關誌『民俗』(一九一三年九月〜一九一五年二月、全五册)を發行し、柳田・高木共編で出發した『郷土研究』(郷土研究社、一九一三年三月〜一九一七年三月)に對抗したが、印刷所は同じだったわけである。否、視野を民俗學に限るまじ、田中正明が發掘した『故今井甚太郎君を偲ぶ今井甚太郎氏追悼録刊行会、一九五六年九月)や『嗚呼田中増藏君』(小泉榮次郎、一九一六年十一月)といふ饅頭本は、醫史學・出版史などの關心からしても一讀してみたいものではないか。管見の限り所藏圖書館無し。なほ、田中正明とは別にこの田中増藏追悼文集を紹介したものに、大屋幸世「蒐書日誌」(初出『鶴見大学紀要 第一部 国語・国文学編』第三十五號、一九九八年三月→『蒐書日誌二』「一九九七年」皓星社、二〇〇一年六月、213・215〜219ページ)がある。書名は本來「嗚呼」とあるべきところ表紙・扉とも「鳴呼」だとかで『鳴呼田中増藏君』と記されてゐ、また岩波書店版『外全集』に聚精堂を「聚積堂」と記述した誤りがあることも指摘されてゐる。大屋幸世『追悼雑誌あれこれ誌日本古書通信社誌、二〇〇五年七月)にも「田中増蔵」を收む。兩者とも氣づかなかったのか、田中正明・大屋幸世は互ひに參照してない。

*11

陽性とは、病氣の反應が顯著といふ意味での陽性であるが、陽氣な性質の意でもある。そこに注意するのは、お樂しみの最中に氣分が昂揚し輕躁氣味になるだけなら誰しも間々あることながら、むしろこれと反對に、一字一句に執する傾向の性格は陰氣な憂鬱質が多いからである。精神科醫である中井久夫の診る所、「一般に歴史学的な作業をやるものには、その職業病といってよいほどうつ病が多い『治療文化論』〈同時代ライブラリー〉岩波書店、一九九〇年七月、80ページ)。以下はほとんど校正癖の記述としても通用しさうだ。

そして、歴史に興味を持つ人すなわち過去に興味を持つ人は、木村敏のいうpost festum的な人、いわば(微分でなく)積分回路的な人、日本の精神医学で(ドイツ精神医学以外では承認を得ていないけれども)「執着性気質」といわれる、几帳面で、飛躍をみずからにゆるさず(結果的には「綿密」になる)、やや高きにすぎる自己への要求水準とそれにもとづく課題選択にしたがって範例枚挙的に無際限の努力をしながら(「仕事の重圧につねに押しつぶされていたい」(若き日のウェーバーのことば、マリアンネ夫人による))、つねに不全感からのがれられず、しかも、緊張と高揚感とを職場を去って自宅へ戻ってからも持続する、という人であることが臨床的には多い。

――治療文化論六2(4)「歴史家の職業病としてのうつ病」83ページ

同じく校正は、既に書かれた文書のみを相手にする精神衞生に惡い質の作業である。それでなくとも、校正みたいな辛氣臭い仕事中に上機嫌といふ呉秀三の如きは珍しからう。――ふしぎですねえ……語学者には不幸な人や、世間から偏屈といわれる人が多いようですねえ……足立巻一『やちまた 下』第二十章、河出書房新社、一九七四年→再版、一九七五年→新裝版、一九九一年→〈朝日文芸文庫〉朝日新聞社、一九九五年四月、「本居春庭年譜」「参考文献」を略す)。文獻學から歴史學へと受け繼がれ、十九世紀ドイツを流行源としたこの病症については、フランス實證史學の確立者が診斷を下してゐる。曰く、外的史料批判の仕事に携はる職業上の危險性は三つ。不完全を恐れるリゴリズムのあまりに陷る無氣力、懷疑と批判の過剩によるあらさがし(酷評)とその結果としての自壞、ゲーム同然に批判のための批判に傾注する無益なディレッタンティズム(ラングロア、セイニヨオボー共著、高橋巳壽衞譯『歴史學入門』第二篇「第五章 批判的學識及び學者」人文閣、一九四二年四月、124〜128ページ。セニョボス/ラングロア、八本木浄『歴史学研究入門』第二編「第五章 文献考証と学者」校倉書房、一九八九年五月、102〜104ページ)

*12

呉秀三『精神病者の書態』は一八九一年『中外醫事新報』初出、翌年三月に蒼堂松崎留吉刊、のち『明治文化全集 第二十四卷 科學篇』(日本評論社、一九三〇年二月→改版第二十七卷、一九六七年十二月→復刻版第二十六卷、一九九三年一月)に收録。その内容は、前掲岡田靖雄『呉  秀三 その生涯と業績187ページのほか、荒俣宏パラノイア創造史』11章「新文字を発明した人びと――鶴岡誠一 and/or 島田文五郎〈水星文庫〉筑摩書房、一九八五年→〈ちくま文庫〉一九九一年十二月)にも詳しく紹介せられてゐる。

*13

この本歌は慈圓(慈鎭和尚)作とされるが『拾玉集』には見えない。慈圓の逸話として『正徹物語』(『徹書記物語』)に「皆人に一のくせは有るぞとよこれをばゆるせ敷嶋の道」とあるのをはじめ屡々引かれるものだが、ほか「皆人一つの癖はあるぞとよ我には許せ敷島の道」「みなひとにひとつ癖のあそとよわれには許せ敷島の道」「人ごとにひとつはくせのありぞとよ我には許せ敷島の道」「人はみなひとつのくせはあるぞとよ我には許せ敷島の道」等と異傳が多く、殊に上の句に變形が生じやすいやうだ。甚だしきは、多賀宗隼編『慈圓全集』(七丈書院、一九四五年)、仝著『慈円〈人物叢書〉吉川弘文館、一九五九年)、仝編『校本拾玉集』「解説吉川弘文館、一九七一年)と、書を著すたび字句が違ふ研究者さへゐる! 中村薫『典據檢索 名歌辭典』(明治書院、一九四〇年六月再版)では、初句「みな人に〜」と「人ごとに〜」と兩項分立である。いま『康熙字典』「癖」の項を見たからには更なる本歌取りの出典に白樂天があったと目さずばなるまいし、右の引例に「人皆有一癖」とあるによって「みな」が原形であるかに思はれるが、那波本『白氏文集』(『白氏文集歌詩索引 下册』所收影印)に當ってみると卷七の五言古詩「山中獨吟」(花房番號330)起聯に「人有一癖。我癖在章句。」とあってまたもや異文、この「人各……」を和語にくだいた引喩とすれば「ひとごとに」もあり得よう。ここは、語呂の好みで「人ごとに〜我にはゆるせ」を採った。……「人ごとに、我が身にうとき事をのみぞ好める」(『徒然草』第八十段冒頭)


【書庫】たのしい知識 > 校正癖 あるいはコレクトマニア綺譚▲刊記▼

發行日 
2006年6月 開板 /2011年6月3日 改版
發行所 
ジオシティーズ
 URL=[http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/GS/correct01.htm]
編輯發行人 
森 洋介 © MORI Yôsuke, 2006-2011. [livresque@yahoo.co.jp]
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