選擇


一九三〇年代匿名批評の接線
――杉山平助とジャーナリズムをめぐる試論――

森 洋介


目次


キーワード:文学の社会化、私批評、ジャーナリズム論、新聞文芸欄、口承性

要旨

小林秀雄も論じた如く、一九三〇年代には匿名批評が盛行し、且つ重視されてゐた。その匿名評論の第一人者だったのが杉山平助である。杉山が執筆した東京朝日新聞學藝欄の匿名コラム「豆戰艦」の成功を契機に、各紙誌に匿名短評欄が設けられ、杉山自身も評論家として名を成した。匿名批評および杉山の評價をめぐって交はされる論議は、當時トピックとなった常識論、新聞・ジャーナリズム論等と交叉しつつ、大きく言って文學の社會化といふ問題群を形成してゐた。廣く讀者の立場に立って活字にならない聲を反映するのがティボーデの謂ふジャーナリズム批評であり、それが匿名批評の中に見出され、また求められてゐた。


「すべての文学は匿名の状態に向かう」

E.M.Forster‘Anonymity:An Enquiry’*1

一 小林秀雄の匿名批評禮讚

「文藝批評つていうものは、みんな匿名にしちやつたらいいと思うんです」――これは小林秀雄の發言である(對談「大作家論」)。一時の放言ではない。小林の批評論を通覽すると、匿名批評が一再ならず繰り返されるトピックであることに氣づく。昭和十年代――一九三〇年代半ばから、彼の批評をめぐる思索は匿名批評に焦點を結ぶのが常となるのだ。その批評論は匿名批評論に收束するもの、とさへ言ひ得るだらう。

このことに觸れた小林秀雄論は僅かしかない*2。だが論より證據、匿名批評を論じた小林の文に就かれたい(a〜i)*3。まづ一九三六(昭和十一)年三月三日の「文藝時評」が「匿名批評」と題し(a)、「もし匿名批評が、健全に發達したなら、文藝時評の如きは要もないものとなるだらう、ならなくてはならぬと僕は思つてゐる」と結語した。これが反響を喚び*4、それに應へつつ小林は匿名批評をさらに再論してゆく――(b〜e)。中で最も詳論したのは、これら批評論の綜括でもある「文藝批評の行方」(f)である。そこで小林は、批評が「文學の社會的評價」をなさんとした結果、匿名批評だけが殘った、と觀るのだ。

さういふ事實に匿名批評が根ざしてゐるものなら、これは近代批評の根本的性格の具體化に他ならない。匿名批評の流行とは健全な文藝時評が生れる土臺を語つてゐる。そしてそれは優れた批評文學が生れる土臺でもある。フランスやルメエトルも、匿名批評の氾濫するなかで批評を書いた。アカデミックな批評に反對した彼等の批評は、匿名批評の精華とも言へる。 (「文藝批評の行方」)

戰時期の中絶を挾むものの、敗戰後にも匿名批評の勸めは再提言され(g〜i)、匿名批評への一方ならぬ入れ込みぶり、小林秀雄が匿名批評に託したものの大きさが、察せられる筈だ。かつて龜井秀雄が論じた「小林秀雄における社会時評のモチーフ」*5は、匿名批評論に於て最も尖鋭に現はれてゐると見なければならぬのだ。が、ここで小林秀雄論は任ではない。

かくも重視せられた匿名批評とは何ぞや、が本論の眼目になる。小林秀雄は一例なるのみ、それら匿名批評論の波紋を同時代のコンテクストの中に讀み取るべきなのだ。例へば小林にしばしば噛みついた矢崎彈*6は、「文藝批評のヂレンマ」(b)にも喰ひついてゐる。「現象論における小林秀雄の弱點」*7と題して曰く、「小林秀雄は批評家〔從來の文藝時評家〕の社會感覺の缺乏が匿名批評を興隆せしめた最大の原因だといふ。かれのいふママ論はまちがひではない、むしろほんたうにすぎる位ほんたうでありながら、抽象的であり、かくなつた過程についての現實的な註釋が足りない」。――「もつと、日本文壇の最近の現象に忠實になるならば、朝日豆戰艦が好評となり、當時の氷川烈こと杉山平助の文壇的登場が匿名の跋扈を促したことはいなめない。」「杉山平助の登場や豆戰艦の好評を無視してすくなくとも今日の匿名流行を論じられず、」――云々。

實は小林と雖も、最初に匿名批評を論じた文藝時評(a)で杉山平助と豆戰艦の名を出すだけは出してゐた。だがいつもながら小林は現象と交はる具體性に乏しく、一接點といふに過ぎない。匿名批評といふ正體不明な代物に接近するには、その屈曲面に沿うて幾つもの接線を引き、輪郭を浮び上がらせる手だ。矢崎の言ふ通り、現象に即した註釋が要り用だ。それには杉山平助が主軸となるだらう。そも杉山平助とは何者か。

二 汚名に塗れた無名氏・杉山平助

矢崎彈ばかりでない、當時の匿名批評論がみな筆頭に擧げるのが杉山平助である。大宅壯一「流行性匿名批評家群」には「まづ第一に、すでにあまねく知られてゐて、その點でもはや匿名性をすら失つてゐるのは、東京朝日△△△△豆戰艦△△△の杉山平助氏。」「いづれにしても、彼は現代匿名評論界の第一人者で、彼がこの風潮をつくり出した、といつて惡ければ、この風潮の波に乘つて現はれた男である」*8とある。名和潛*9の「匿名評論家評論」も亦、最上級の形容を浴びせる。「凡そ匿名評論家といへば、杉山平助を想ひ出す」、「彼の匿名界に持つ職場の廣さ、彼の匿名界に辿つて來た經歴が、文句なく彼を横綱に押し上せるのである」*10と。

だがそれは名前が擧げやすかったからだとも言へよう。元來本名が匿されて判らぬ筈のこのジャンルで、匿名にも拘らず名を顯はしたのは杉山平助ひとりであった。まさに「有名なる無名氏」*11として知られてゐたわけだ。「まづ匿名で認められて、つぎに本名をかかげるにいたつたのも、いかにも非常時らしい文壇進出法である」とは先の大宅壯一の評である。名和潛は「匿名を父母として生まれた彼」と呼ぶ。

大抵の匿名評論家は、文壇もしくは、評論界に聲名を馳せたヴエテランであつて、特別に其名を祕するから、匿名なのであるが、杉山の場合はその逆であつた。祕すにも祕しやうのない無名の評論家が、もぐらもちのやうに、匿名の地下道を潜ぐつて、花壇を荒し廻つてゐるうち、自然にこの惡戲者の名が世の中に知られるやうになつた。それが杉山平助なのである。だから杉山平助が、變名もしくは匿名するとは、本來の意味を爲さない。變名もしくは匿名そのものが、杉山平助に外ならないのである。*12

杉山平助の、無名から匿名を經て有名に到る履歴を、ざっと辿っておかう*13。彼も初めは小説家志望だった。自傳的長篇『一日本人』(昭文堂・一九二五年十二月)を書下ろし自費出版して世に打って出、生田長江から過襃な程の激賞を受けた*14のだが、それでも「默殺された」*15。杉山は次第に創作と共に廣義の評論*16を志向するやうになる。

雌伏期を經て第二著『評論と隨筆 春風を斬る』(一九三三年五月)*17は「氷川烈」といふ署名で刊行された。氷川烈とは、東京朝日新聞學藝欄の匿名コラム「豆戰艦」で杉山が用ゐた筆名だ。『春風を斬る』は何も「豆戰艦」を收録したわけでなく、初出に遡れば實名で發表した文章ばかりだが、それを敢へてこの名義で一卷としたところに匿名批評家・氷川烈の本名以上の盛名振りがうかがはれる*18。「氷川烈の杉山平助なぞは實名の有無にかかはらず氷川烈でなければならなくなつてゐるのだ。言はば氷川烈といふ商標にプレミアムがついてゐるやうなものである」(尾崎士郎)*19。この一九三三年、杉山の活動は殊に目覺ましく、文壇内外で評論家として認知され*20、知名の士となったのである。

その杉山が覆面で登場した「豆戰艦」欄は、もと青野季吉の創案だった。青野によれば「およそ日華事変のぼっ発にかけて」の「匿名評論の時代」、「その時代に魁けたのは朝日の学芸欄の雑誌短評で、昭和五年のはじめごろ、主任の坂崎坦から相談をうけてわたしがその形式を打ち出したのであった。二年ばかりしてそれは豆戦艦の名で、氷川烈こと杉山平助(明治二八〜昭和二一年)の担当するところとなった」*21。毎月末「×月の雜誌」として圍まれた欄が勇ましく「豆戰艦」と題したのは一九三一年十二月からで初め無記名、年明けて一月より氷川烈の署名が入り、途中「その匿名を氷川烈、横手丑之助、大伴女鳥といふ風に變へたけれど、その前半期における筆者は、完全に私一人であつた」と杉山平助「匿名批評論」*22は言ふ。後期、即ち一九三四年二月の大伴女鳥(=タイハンメイチュウ)からは青野季吉との共同の筆名であり*23、以後同欄はX、玉藻刈彦(=タマニモウカルヒト)*24等の變名を交へつつ一九三六年五月まで續いた。「一九三二年、三年が最も絶頂であつた。ジャーナリズム全體から問題を拾つて辛辣に批評した。思ひ切つた惡口ものつたために、それは忽ち世間の注視の的となり、匿名批評がジャーナリズム全體に擴がつてゆき、筆者の杉山は文藝評論をはじめとし、あらゆるジャーナリズムに流行していつた」とは板垣直子の綜括するところ*25。廢止された時には「匿名批評の元祖豆戰艦や、赤外線はインテリにとつて學藝欄といふより全體朝日の魅力だつたのに、それが姿を消して」*26とまで惜しまれる程だった。

三 匿名批評の時代としての一九三〇年代

まさしく「匿名評論の時代」――匿名批評の盛行は一九三〇年代を通じての著しい特色であった。とはいへ盛り上がりっ放しではなく幾つかの小さい波があった。中でも、まづ杉山平助の匿名が公になったのは一九三二年。『新潮』一九三二年六月號のXYZ「文藝ノート」に「匿名批評の流行」といふ一節が見えるが、これを受けて翌七月號、近松秋江「近時罵憤録」が「匿名批評の化けの皮」として「朝日の豆戦艦が杉山平助であると知れては、忽ち興味索然」云々と述べたのである。するとそのまた翌月、八月號に杉山平助が「文藝時評」を寄稿、「文壇の公器」(中村武羅夫)たる文藝誌への初掲載とあって重々しく文學論を開陳するが、後半ガラリと輕評論調にくだけ、氷川烈は杉山なりと暴露する秋江その他の記事*27を擧げて「僕は知らん」と白を切ってみせた*28。この登壇デビユーが成ったのもその匿名への興味があったればこそと見られよう*29。逆説的にも、匿名が、名を揚げたのだ。これと前後して、「豆戰艦」は七月二十五日附から署名を横手丑之助と變へた。「筆者申す」として「的はづれの評判に前任者もだいぶ惱まされてゐたやうだから」云々と氷川烈とは別人を裝ってゐ、のちの匿名を敢へて隱さぬ態度はまだ出來てゐない。

次いで一九三三年に入ると、「朝日の豆戰艦をはじめとし、讀賣の一枚評論、都の大波小波、時事の青龍刀と、一時的現象たるかのごとく思はれた匿名評論形式は、今や常設的なるものへ移行せんとしつつある」(『文藝春秋』一九三三年三月號)*30と觀測される。さらに匿名流行の波が最高潮に達するのは一九三四年以降のこと*31。各紙の匿名コラムが定位置を得、また「この匿名の問題にからんで、鈴木茂三郎と東京日日新聞との間に、喧嘩がおつぱじまつて告訴沙汰にまで發展した」*32事件が話題になった*33こともあり、最早ついでの言及ではなく正面から「匿名批評の蔓延と、その害惡とが評論界の問題になりはじめた」(『文藝春秋』一九三四年五月號)*32のだ。

大宅壯一の「流行性匿名批評家群」(前掲)もその一つ。「鈴木〔茂三郎〕氏自身も古くから匿名評論の達人の一人だといふ*34から、この評論形式それ自體の時代的、社會的意義は認めてをられるに違ひない」とした上で、「これまで匿名評論といへば、或る事件や問題について、それを正面から論ずることのできない特殊な條件のもとにおかれてゐた人間が、やむをえずとつた特殊な、どつちかといへば變態的な評論形式であつた。ところが、近頃はかへつて匿名評論の方が、ヂヤーナリズムの上で、特にセーヴされた指定席を占めてゐる場合が多い。裏木戸がいつの間にか玄關になつてしまつた形である」と概觀する。

つまり「これまで刺身のツマであつたものが獨立の小さな皿の雲丹や鹽からにまで發展した」のであり、「相手のあら搜しとか漫罵とかカリカチュアとか云ふ、舊い匿名評論に通有したそれとはまるで違つて」ゐるといふのだ(青野季吉)*35。「いつの時代にもある」などと看過ごせない、この一九三〇年代ならではの特有性を認むべき所以である。そして「それまでも匿名批評は存在したが、それは未だ片隅の埋め草的存在に過ぎ」なかったのに「それが今日のやうな特殊な興味と權威をもつて學藝ジヤーナリズムに流通しはじめたのには、杉山平助の匿名批評が、あづかつて大いに力があつたとされる」*36

匿名コラム隆盛の嚆矢となった經緯は、杉山も自負する所だ。「近年に至つて、俄然としてこの欄を重要視する機運の勃興して來たのは、何と云つても朝日新聞の豆戰艦がトツプを切つたもので、たちまちにして、全ヂヤアナリズムがこれに風靡せられた」、「いづれにせよ、日々匿名欄蝸牛の視角か〕、その後のおけらの唄、都の大波小波、讀賣の壁評論、報知の速射砲等が陸續としてあらはれたのは、むしろその後のことである」、「新聞の匿名欄の旺盛に刺戟せられて、從來散見してゐた雜誌における匿名的評論も、さらにまた旺盛になつて來て、編輯者の重要な關心をひくやうになつた」(前掲「匿名批評論」)。のち『文藝』一九四〇年三月號、アンケート「最近の新聞紙上に行はれてゐる匿名文化雜誌批評をどう思ふか」で、先頭に杉山平助曰く「余の豆戰艦を摸して遠く及ばざるものとす」*37とのみ。四〇年代、既に匿名批評は「支那事變に入つて、國民生活が上から引締められてくるに從ひ、弱つてゆき、大東亞戰爭に入ると、今やジャーナリズムに一つの匿名批評なしといふ状態になつた」(板垣直子)*38のである。

四 私批評に抗する社會性

匿名批評論が杉山平助論へと脱線してしまったやうだ。しかし再び言はう、「變名もしくは匿名そのものが、杉山平助に外ならないのである」(名和潛)。匿名批評が杉山平助を有名にした反面、また著名評論家としての「彼れ杉山に於ては、この匿名批評の態度が、そのまゝ署名批評の上にも現はれて來る」*39。なれば兩面突き合せてこそ立體として把握できようもの。匿名批評論を杉山平助論として解析すること、且つ杉山平助論を匿名批評論に統合すること――。そもそも當時の匿名批評に關する言説は、對象の性質上、何を(誰を)名指すものか明確でない一般論が多く、現象論的な事實への還元が困難なのだが、暗に杉山を念頭に置いた説と讀めば判然とすることが屡々ある。

例へば匿名批評の本質論としては、勝本清一郎の斷案がある。曰く「その最も高い本質は、從來の印象批評とか私批評とか云ふものの個人的境地を、マルクス主義的批評とは別の側から、やはり一種の客観的社會的批評にまで揚棄した點にある」と*40。また匿名短評欄創設の提案者だったと名乘る青野季吉は、發案した「その直接の動機は、當時、心理的・個性的な私批評が文壇的の評論を支配した形になつてゐて評論に社會性、大衆性といふものが、影を潜めてゐた形だつたからである。」「そこでその私批評によつて生じた大きな空虚を埋めるためには、明確な階級的な意味での、社會性や大衆性に立つ批評〔=プロレタリア批評〕でなく、水準的な社會感覺や大衆感覺に立つた街頭批判的、路上批評的の評論が、是非とも必要であると考へた」*41と説明してゐる。

ここに「私批評」といふのは無論「私小説」に倣った造語で、もと一九二六年に正宗白鳥が青野季吉の外在批評論に反論する中で言ひ出した*42のだが、既にこの頃は小林秀雄流を批判する語となってゐた*43。青野・白鳥論爭の頃は私批評に相對するのは左翼公式理論だったのが、昭和十年前後、プロレタリア派解體以降の所謂文藝復興期にあっては、匿名批評がその任を帶びたわけである。小林自身、既往を省みたが故に匿名批評に期する所があったのだらう。合言葉は「文學の社會化」――但し、もはや左翼イデオロギー式ではなく、だ。

これらは正に、杉山平助の軌跡と合致する。「プロ文學の全盛が更に續いてゐたならば彼は或ひは現れ得なかつたかも知れない」*44のだ。大宅壯一に言はせると、閉鎖集團である文壇の特殊性(谷川徹三の所謂「文壇的方言」)を批判して「文藝批評に社會的な觀點を最初に取り入れたのが、プロレタリア批評家である」。「ところが、このマルクス主義といふものは」「一般人の眼からみると、これまた特殊な原理で、」「殊に滿洲事變以後」「支持する層は漸次狹められてきた。この時期に擡頭した一種の社會的文藝批評家が杉山平助である」(「杉山平助を語る」)*45。同樣に、杉山が成功した要因を「左翼思想の退潮以來、急角度で方向轉換してゐたジヤーナリズムの要求」に見るのは青野季吉の杉山平助評である。

左翼思想特に極左思想による觀念の氾濫と、反常識又は非常識の跳梁と、公式主張の沒人間性とに食傷したジヤーナリズムは、生活に即した平明な唯物觀と、もの分りのいい常識主義と、素の肉體でぶつかつて來る人間性とを求めた。そこにわが杉山平助のために一杯に幕のひらかれた舞臺が展開されたのだ。*46

同じ事情を或る「杉山平助論」では、極左的思想の氾濫を經てナイル流域が再び沃野にたち返ると、自由主義的思想がプロ文學を肥料にして芽を出した――と喩へ、ここに於て大宅壯一との對比が語られもする*47。つまり、その「野武士流」の類似と立場の相違*48とが。通例、杉山の人氣は「無遠慮な口の利き方と、その口の利き方の根據」、即ちその「立場が藝術派でもなく、左翼でもなく、これまで他に類のない、社會的な、新聞記者的な、大衆的なものである事」に「原因してゐる」(伊集院齊)*49とされるのだ。

五 常識論とジャーナリズム論からの接近

ここで落とせないのが戸坂潤の「匿名批評論」だ*50。やはり鈴木茂三郎の東京日日新聞告訴事件を枕に振って「新聞に對するかうした〔社會人からする〕批判こそが、實は本當の意味での匿名批評ヽヽヽヽの問題なのだ」(傍點原文)とした上で、批評の本質から説いて堂々たる匿名贊成の論陣を張ってゐる。

戸坂は「批評が元來匿名批評的な根本性質を有つてゐる」と言ふ。――批評する側は「社会の通念や輿論や常識」といった「何か一般的普遍的な力を意識して」これを代表する。批評者が個人名を有してゐても、それが「名を有つてゐる點に」ではなく「社會の立場の代表者某だといふ點に意味がある」。署名を要求するのは「ファン意識」や「個人倫理」に過ぎず、「批評の科學性ヽヽヽ客觀性ヽヽヽ」からすれば「第二次以下の問題な筈」。つまり「批評といふものが元來匿名的な無記名的な普遍的な本質のものだつたから、從つて批評自身が盛んになれば、おのづから匿名批評も流行するやうになるのに不思議はない」。「で匿名批評とは實は、批評者の個人的差異を度外視した社會的普遍性の立場に立つてゐることを云ひ表はすための形式のものであつて」「名を匿すことが目的などでない」。而してその窮極は「無記名」であること、投票や新聞記事の例に見る如し――云々。

同樣に、青野季吉は「この輿論性があるから、人々は筆者の何人たるかと云ふ詮索に囚はれず、地で語られた、ひろく通用し、また通用してゐる意見として、匿名評論に應對するのである」*51と言ふ。同じことは伊藤整も認める。「匿名批評においては新聞記事が無記名であつてしかも大衆の聲であるママうに、讀者はそこに自己の代ママ者を見出すにちがひない」。その點で「對象に託して自己を語つてゐる」批評(つまり私批評だ)が「文壇フアンといふ限られた讀者を持つ」のと對比される、と*52

見ての通り、ことは新聞ジヤーナリズム論に關はる。青野季吉「匿名批評論」は、舊來の匿名記事との違ひに就き「匿名批評が世間の注意を惹いて、批評の一形式として獨立の價値をもつて來たのは、新聞ヂヤーナリズムと結びついてからである。これは匿名批評を論ずる場合に、第一に見逃されてはならぬ點である」*53と注意する。小林秀雄の匿名批評論(a・b)も、長谷川如是閑の新聞論「新聞紙に於ける社會的感覺の缺乏」*54を引くところから説き起されてゐた。戸坂潤は、その如是閑と竝ぶ一九三〇年代ジャーナリズム論の代表格である*55。「ヂャアナリズムとアカデミズムの關係を私が絶えずディアレクティツシュに把握して來たことは、誰からも承認してもらへるであらう」とは杉山平助の言*56だが、殆ど戸坂潤の科白と言った方が通ずる位だ。戸坂に於て「批評といふのは」「專門的に又アカデミックに孤立した文學の世界なり科學や哲學の世界なりが、常識的に洗錬ヽヽヽヽヽヽされる」場であって、「そして之がジャーナリズムといふものの第一の仕事でもある」(「匿名批評論」傍點原文)。アカデミズム・常識・ジャーナリズムが三幅對をなすのだ(いまアカデミズムはさておくが、局外批評論と絡めるべきだらう)

その頃「最近の文壇では、常識といふ言葉が流行して居る」*57と言はれたが、戸坂潤の常識論の一つは「近來、常識といふものに多少反省を加へてゐるものは杉山平助だらう」と書き出すものだ*58。また唯物論研究會で戸坂の盟友である岡邦雄の「杉山平助論」*59も、「現在の評論家の中で、いろんな意味から自分の敬服してゐる人が二人ゐる。杉山平助と戸坂潤とだ」と始め、大正の長谷川如是閑に繼ぐ「ジャーナリスト乃至啓蒙家」――「アンシクロペヂスト」が彼らだと云ひ、そこから「偉大な常識家」としての杉山の檢討に移るのだ。杉山平助ときては「氏の批評は常識的であるとの批評をたえず受けてゐた」*60と總評される程だが、これとて必ずしも貶辭でなく杉山自身また常識について一家言を有した*61。常識論議は、文學を「社會の一般常識から監視する」所に匿名批評の功を見た小林秀雄説(c)からも起ってゐる*62。また世評に曰ふ――「通俗評論家といはれる者はみんな優れた常識家である。その意味で杉山平助も新聞向きの評論家だ。」*63――「近來杉山平助くらゐ新聞が利用できるジヤアナリストは姿を見せない」*64。常識と、新聞・ジャーナリズムとの、相關。匿名批評=杉山平助の像が結ばれるのもそこに於てである。

杉山や大宅壯一らの活躍した場である、新聞の學藝欄といふ制度も注目を要する。明治後期に文藝欄として誕生し今日は文化欄とも呼ばれるこの紙面の歴史は植田康夫が大略を述べてをり*65、『都新聞』(現『東京新聞』)の匿名コラム「大波小波」に就ても特記してゐる。だがそれだけでは、匿名批評の時代が取分け新聞學藝欄に端を發したこと、特にこの三〇年代に學藝欄が躍進した事實が、見逃されてしまふ。その一例が、QQQ「新聞學藝欄批判」。『新潮』一九三六年新年號から翌年十一月號まで連載された匿名月評で、同時期、『新潮』には一九三三年以來「ヂヤアナリズムの動き」欄が續いてゐたのだが、ジャーナリズム諸種のうちでも新聞學藝欄だけ別して時評する必要が認められたわけだ。何より決定的な例は、月刊紙『日本學藝新聞』(新聞文藝社→日本學藝新聞社、のち月二回刊→旬刊)である。一九三五年十一月五日附創刊號の第一面を飾ったのは杉山平助「昨今の新聞學藝」。同紙は謂はば各紙の文藝面・學藝欄をそれだけで獨立させて一紙としたやうなものだった。かくて新聞學藝欄及び新聞學藝欄的なるものが一般讀者層にまで滲透しつつあったのであり、さればこそ、一新聞紙の眇たるコラムに過ぎぬ「豆戰艦」が大いに世評に上ったわけも領解できよう。新聞小説論もこの昭和十年前後の話題として文學史に記されるが、小説至上主義を脱して觀るなら、それ以上に顯著なのが杉山平助の言ふ「新聞向きの評論」*66――謂はば「フユトン・クリティク」(矢代梓)*67――の展開だった。杉山平助(ら)の特長は、新聞以外に寄稿する時でもフィユトニスト(文藝欄ライター)としての性格を發揮した所にある。事實その手腕を買はれた杉山平助は、一九三五年九月より東京朝日新聞學藝部囑託となってゐる。三〇年代に匿名批評が獲得した社會性も、新聞の――乃至は新聞的ジヤーナリステイツクな社會性に、裏づけられたものと見なせる。

六 ジャーナリズム批評における口承性

大宅壯一は杉山に告げる。「君が新聞の匿名批評家としてスタートしたといふことは、君の最大の強味である。元來新聞は雜誌と違つて、讀者層がすこぶる廣汎で、異質的である。そこで文學や文壇的現象を批評するには、文學生産者である少數の作家たちの立場から離れて、廣汎なる文學消費者の立場に立たねばならぬ」と*68。「讀者の立場」と言ってもいい。別の所で大宅は、杉山を「徹底したヂャーナリストの立場」と見、その「ヂャーナリズム」には「口から口へつたへられ」て活字に表れにくい「讀者の批評」が反映する、局外批評や匿名批評の存在理由も「この讀者の立場を反映してゐる點に存する」、と論じた*69

ところで大宅壯一はその匿名批評論では、「或る人が杉山平助氏を批評して彼は座談を活字化することに妙をえてゐるといつたが、たしかにそれは彼の急所をついた言葉である。しかもそれは杉山氏ばかりでなく、多かれ少かれ、匿名批評家全體にあてはまることである」と言ひ、さらに、匿名は「活字を意識した場合のポーズよりも、座談のそれに近い」こと、「匿名批評の常連」たちが「みんな座談がうまい。少くとも座談の愛好者である」こと、しかし面白いことに「演説はあまりうまくない」ことを、指摘してゐた。「演説はいふまでもなく活字に近い」とも(前掲「流行性匿名批評家群」)

座談といへば、「座談會の流行は、匿名評論の氾濫と共に、近頃のヂヤーナリズム界を特色づけるもつとも著しい傾向である」と言ったのも、大宅壯一だ(「座談會の流行」)*70。座談會とは昭和初年の『文藝春秋』が發祥であること、よく知られてゐよう。大宅の曰く「各種の匿名評論に一番力瘤を入れてゐるのもこの雜誌〔『文藝春秋』〕だといふことを考へれば、兩者の結合は決して偶然でない」(「座談會の流行」)――「特に『文藝春秋』の如きは、政治、經濟、新聞、ラヂオ等にわたつて、常設的匿名評論が、同誌全體の脊髓になつてゐるといつても、敢て過言ではない」(「流行性匿名批評家群」)

因みにこの『文藝春秋』こそは杉山平助が「豆戰艦」に先だって匿名批評の經驗を積んだ場でもあった。戰前『文藝春秋』は毎號、卷頭隨筆に續けて「文藝春秋」欄を掲げる構成だった。アフォリズム風の短評を連ねる形式で、見開き二頁の無署名コラムながら、誌名そのままを名乘るからには雜誌の看板とも目される。實にこの文藝春秋子が杉山平助で、菊池寛の拔擢で一九二八年九月以來擔當、十年に亙り毎月書き綴った*71のである。のち「文壇從軍記」と改題して杉山の著書に順次收録、journalの原義である「日々の記録」としても評價できるものだ。

大宅の指摘に戻ると、これが興味深いのは、座談會どころか別に口述筆記でもない書かれた批評さへもが「座談の活字化」と見做し得る所にある。さう、「讀者の批評」だ。恐らく、曾てならば口頭に於てのみ聞かれ消え去る儘であった發言、記すに値せずと文字の世界からはじき出されてゐた聲無き聲が、今や、活字上に定着されつつあった――匿名批評といふ形で。

ここにサント=ブーヴが參照される。出典は『月曜閑談』だが、むしろ小林秀雄譯『我が毒』「XXI 批評について」に「パリでは、眞の批評は喋り乍ら出來上がる」と譯された斷章で知られる。これを小林は「眞の批評は座談から生れる」とし、「決して文學者仲間の文藝談を指したのではなかつた。パリ人の座談を指した」と説いてゐた*72。この延長上に小林の匿名批評觀も開花したと覺しく、それは後世代の批評家に結實する――「「批評は座談から生れる」といふ言葉があるが、匿名批評の根本的性格は、その座談から生れる批評なのだ」(十返肇)*73。この斷章に續く一節は、なほ一層匿名批評に符合するものだらう。

文學には二種類ある――一つは、公認の、書かれた、紋切型の、教授された、キケロ風の文學であり、もう一つは、口頭の、爐邊の談話に現れる、插話風の、よく人の惡口を言ふ、禮を知らぬ文學、前者を訂正し、屡々滅茶苦茶にして了ふが、時には、同時代の人とともに殆んど皆死滅して了ふ文學。 (『我が毒』「批評について」)*74

事實、小林の譯した『我が毒』に傾倒した山本健吉*75は、杉山平助及び匿名批評を評するに、この後者、口頭の文學を當てることを以てした*76のである。

この斷想録は小林譯より先行する石川湧譯『わが毒舌』(一九三五年十月刊)*77の方で讀まれてゐたかもしれない。初刊本「譯者後記」で石川湧は「著者の現代的意義については、私が最近に譯刊したテイボオデ批評の生理學」(春秋社版)が教へるところが多いであらう」と指示してゐる。正に右の斷章を展開した論が『批評の生理學』第一章で、サント=ブーヴを承けたティボーデは、自然發生的批評、即ち一般讀書人による話される(書かれざる)批評が、今日では殆ど新聞の批評・ジャーナリストの批評に流れ込んでゐると論ずる*78。そしてティボーデの批評論から花田清輝のコラージュ的杉山平助論の一節も取られたのだ。即ち「讀まるべき批評家、しかし、讀みかへさるべきでない批評家――ヂヤーナリスト」(「赤づきん――杉山平助の肖像畫」)*79と。つまりはサント=ブーヴの謂ふ「同時代人と一緒に殆んど全く死滅してしまふ文學」(石川湧譯)である。

これは勝本清一郎の皮肉な杉山平助評*80にも通ずる――「杉山氏は目下危機に立つてゐる。と云ふのは彼の批評文が」「單行本の形になつて大いに讀まれ始めてゐるからである」。「單行本で讀まれては彼の評論も臺なしである」、なぜならそれらは(杉山*81が)「自身でも云つてゐる新聞向き、或はせい〴〵雜誌向きの評論」であって、その日毎に「讀み飛ば」すべきもので「繰返しては讀めない」から。――けれども文藝批評には「杉山氏の場合の如くに、現實の社會の中に波紋を起す作用の中にこそ自分の仕事の生命を見出してゐて、その波紋が靜まれば彼の仕事の生命も終り、もし彼の仕事が殘るとすればそれは書き殘された評論集の中にではなく、文壇が實際に動いた歴史の澪の跡にこそ何らかのかくれた形でうかゞへる、と云つた風な仕事ぶりもある」のだ――

成程、匿名批評は署名のある批評に比べ後世に遺らない。本名に於てさへ典型的な迄に匿名批評的な評論を書いた杉山とあらば、埋もれて當然だらう。にも拘らず、杉山平助の名がなほ(辛うじて?)傳へられてゐるとすれば……。「元祖豆戰艦を凌駕する匿名批評が、現はれさうで容易に現はれない」(小林秀雄・と云はれ、匿名批評の中から名を成したのは杉山平助が唯一例外に等しい。恐らくそれは彼が、見てきた通り、餘りに匿名批評性を體した常識論を説く、稀有の常識的個性の持ち主なるが故ではないか。「同じ常識主義でも杉山流に徹底することは、普通の常識では到達しえない境地で、常識に徹して常識を脱してゐる」(大宅壯一)*82。非常識なほどに常識的であるといふことが彼の個性だったのだ。

逆に言へば、當時のアクチュアリティーに即した「現象論的解釋」(矢崎彈)、もしくは讀者論的研究が目指す「同時代読者の読み」*83に接近するには、杉山平助に――匿名批評に就くに如くはない。そこにこそ、日々の會話に自然發生する讀者の批評が、口から出ては發散してしまふ聲の痕跡が、過去における「文學的現在」(ティボーデ)が、見出されるだらう。

本稿も亦、能ふ限り同時代の聲に語らせ、書く者の「固有名を消し去って、語られる言説のこの巨大な匿名のつぶやきのなかに自らの声を住まわせ」*84ようと努めたものだ。願はくは、これが眞に「常識」(當時の)をなぞったものでしかなく餘計な獨創性なぞ無からんことを。


(附記)本稿は二〇〇二年七月日本大學國文學會總會における研究發表「ジャーナリズム論の一九三〇年代――杉山平助をインデックスとしてhttp://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/GS/journalism02.pdfと一部重複するが、特に匿名批評を主題に絞って再論したものである。

(1)

E.M.Forster ‘Anonymity:An Enquiry’. 初出一九二五年→小野寺健譯「無名について」(『E・M・フォースター著作集11 民主主義に万歳二唱 』みすず書房・一九九四年二月)→仝改譯「無名ということ」(小野寺健編『フォースター 老年について』〈大人の本棚〉みすず書房・二〇〇二年五月)。但し譯文は富士川義之「イギリスの書評文化2――TLSの九十年」(『きまぐれな読書 現代イギリス文学の魅力』〈大人の本棚〉みすず書房・二〇〇三年四月156頁)所引のものを採った。

(2)

郡司勝義『歴史の探究 わが小林秀雄ノート・第三』「三 現実の世界」中「一 匿名時評」(未知谷・二〇〇一年三月)秀実「今日のジャーナリズム批評のために 小林秀雄と大西巨人」『ユリイカ』二〇〇一年六月號〈特集 小林秀雄〉、及びこれを參照した、森本淳生『小林秀雄の論理 美と戦争』(人文書院、二〇〇二年七月)191〜193頁。

(3)

以下a〜iの九本はdを除き『小林秀雄全集』(新潮社・二〇〇一年四月〜二〇〇二年七月)で讀める。*はこの第五次全集での新收録を示す。但し猶も全集未收録は多く、他にも匿名批評への言及は見つかるだらう。

「文藝時評(3)匿名批評」『讀賣新聞』〈文藝〉一九三六年三月三日→「文藝月評――岸田國士の『風俗時評』其他」全集第四卷45〜46頁參照。

「文藝批評のヂレンマ」『文學界』一九三六年四月號〈春夏秋冬〉→*全集第四卷73〜80頁參照。

「文藝時評(1)文藝時評の形式 再び匿名時評について」『讀賣新聞』〈文藝〉一九三六年四月三日→*「文藝月評」全集第四卷86〜87頁參照。

「最近の文壇から問題を拾つて」(座談會、中村武羅夫・上泉秀信・川端康成・尾崎士郎・舟橋聖一・島木健作・伊藤整・杉山平助と)『新潮』一九三六年六月號110頁〜。但し杉山平助は前半三分の二以上を過ぎてからの中途出席。

「文藝時評(4)論壇の迷子 日本的なもの」『讀賣新聞』〈文藝〉一九三七年三月七日→「文藝月評」全集第五卷85頁參照。

「文藝批評の行方」『中央公論』一九三七年八月號→全集第五卷213頁・220頁參照。

「文藝時評について」『夕刊新大阪』一九四七年九月十五日→*全集第八卷159〜160頁參照。

「現代文學の診斷」『個性』一九四八年十一月號→全集第八卷369〜370頁參照。

「大作家論」(對談、正宗白鳥と)『光』一九四八年冬季増大號(發行日は表紙十月、奧附十一月。終刊號)→*全集第八卷398〜399頁參照。

(4)

山松助平「匿名批評萬歳!」『東京日日新聞』一九三六年三月十日〈蝸牛の視角〉、斬馬人「匿名批評の辯」『東京日日新聞』一九三六年三月十二日〈蝸牛の視角〉、尾崎士郎「最近の感想(三)=いかに生くべきか?=」『東京日日新聞』一九三六年三月十三日、など。

(5)

亀井秀雄『小林秀雄論』第六章「社会時評の可能性」(〈日本の近代作家〉塙書房・一九七二年十一月)參照。但し小林の再三に亙る匿名批評への論及については觸れる所が無い。

(6)

特に小林との關係では、郡司勝義『わが小林秀雄ノート 向日性の時代』一「五 良き理解者たち――矢崎彈」(未知谷・二〇〇〇年二月、73頁以下)參照。また三田文學派の縁もあってか矢崎による杉山平助論の發表は五篇に及ぶ。

(7)

矢崎彈「現象論に於ける小林秀雄の弱點」『星座』一九三六年六月號(未見)→「現象論における小林秀雄の弱點」『過渡期文藝の斷層』昭森社・一九三七年四月322〜327頁參照。

(8)

大宅壯一「流行性匿名批評家群」『讀賣新聞』〈文藝〉一九三四年三月廿七〜三十日→改題改稿「ヂャーナリズムと匿名評論」『ヂャーナリズム講話』白揚社・一九三五年三月→『大宅壮一全集 第三巻』蒼洋社・一九八〇年十一月、參照。

(9)

名和潛は「名ハ、ヒソム」で勿論匿名。無署名「文壇統計メモ【十】 匿名の正體 當世文壇氣質」(『讀賣新聞』〈文藝〉一九三六年九月七日)及び早乙女武二「當世匿名漫談」(『月刊文章』一九三六年六月號)によれば、「名ママ潛」は阿部眞之助の匿名とされる。阿部は當時東京日日新聞學藝部長、杉山平助をつねづね高く買ってゐた。

(10)

名和潛「匿名評論家評論」『文藝春秋』一九三五年八月増大號、207頁參照。

(11)

〔杉村〕楚人冠「有名なる無名氏――覆面の記者ジューニアス」『改造』一九二六年一月號(→改題「有名なる無名氏――覆面の記者ジューニアスの事ども」『その他』朝日新聞社・一九二九年三月所收→『蟲のゐどころ 其の他 楚人冠全集第四卷』日本評論社・一九三七年四月)を想起されたい。英米ジャーナリズム史上に名を殘す匿名投書家を論ず。

(12)

名和潛「匿名評論家評論」((10)前掲)。また同じ事情は新延修三「誰が彼なのだ?」(『文藝通信』一九三四年五月號〈最近文壇二十作家 人物及び作品の印象〉)も諷する所。

(13)

傳記に就て詳しくは、都築久義「杉山平助論」(『愛知淑徳大学論集』第六號、一九八一年三月、136〜100頁)參照。のち都築久義『戦時下の文学』(和泉書院・一九八五年九月)に收むるも、初出末尾に附す「参考文献」「著書目録」「資料」が削られる。

(14)

生田長江「小説「一日本人」を讀め」『國民新聞』一九二六年一月十一日(→前掲・都築久義「杉山平助論」初出末尾に「資料」として飜刻)參照。島田清次郎との比較が興味深い。

(15)

實にその默殺たるや、古谷榮一「默殺された杉山氏の創作「一日本人」を評す(上)(中)(下)」(『讀賣新聞』〈讀書界出版界〉一九二六年九月二十六〜二十八日)といふ三回に亙る書評が出た程に「默殺された」。これに對する應答に、杉山平助「古谷榮一氏へ」『讀賣新聞』〈讀書界出版界〉一九二六年十月一日。

(16)

山口功二「マス・ジャーナリズムとしての批評(一)――杉山平助をめぐって――」『評論・社会科学』第七號・一九七四年一月、仝「マス・ジャーナリズムとしての批評(二)――杉山平助と昭和期ジャーナリズム――」『評論・社会科学』第九號・一九七五年三月、參照。

(17)

氷川烈『評論と隨筆 春風を斬る』大畑書店・一九三三年五月。のち一九三五年一月、千倉書房より『愛國心と猫』と改題し杉山平助著として再刊、序文を別文に差し替へ。

(18)

氷川烈名義の「大御所論」『新潮』一九三三年五月號(→杉山平助『現代ヂャーナリズム論』白揚社・一九三五年二月所收)は『春風を斬る』刊行に合せた宣傳か。他に「文藝評論家群像」(『新潮』一九三二年十一月號→『春風を斬る』所收)も氷川名義だが、共に例外に屬す。

(19)

尾崎士郎「匿名無用の説 一遍假面を脱いでは何うか」『都新聞』一九三三年十月十九日〈大波小波〉→小田切進『大波小波 匿名批評にみる昭和文学史 第一巻・1933‐42』東京新聞出版局・一九七九年三月40頁。尾崎自身、匿名批評の有力な書き手だったことは註8文獻にも見られる通り。

(20)

「批評家では、本年最も傍若無人に暴れ廻つたのは杉山平助氏であらう。」「殆んど批評家十人分位の賑やかさを文壇に寄與した」(深田久彌「本年度文壇の回顧」『文藝』一九三三年十二月號156頁)。また文藝年鑑への登載も『1934版』(改造社・一九三四年六月)から。

(21)

青野季吉『文學五十年』「二・二六事件のころ」筑摩書房・一九五七年十二月→複刻・〈近代作家研究叢書〉日本図書センター・一九九〇年一月、140〜141頁參照。なほ夙に青野は「匿名批評論」(『月刊文章』一九三六年五月號28〜29頁)でも「三四年前、或る大新聞の學藝欄の責任者が」云々と述べてゐるが、時期が昭和七〜八年頃のことになって一致しない。

(22)

杉山平助「匿名批評論」『日本評論』一九三七年五月號〈匿名評論是非〉→仝『現代日本觀』三笠書房・一九三八年三月所收、參照。

(23)

青野季吉『文學五十年』「二・二六事件のころ」((21)前掲)參照。

(24)

タイハンメイチュウ、タマニモウカルヒトの讀みは、無署名「匿名の讀方」(『日本學藝新聞』第十一號・一九三六年九月一日)に據った。

(25)

板垣直子『現代の文藝評論』第一章一「5 匿名批評の發生と流行」(第一書房・一九四二年十一月)34〜37頁參照。

(26)

冬山三郎「〈話題の人〉非常時東朝の新學藝部長 服部龜三郎」『日本學藝新聞』第九號・一九三六年七月一日、より。

(27)

杉山は明示してないが、走馬燈居士「文壇檢非違使――――」『近代生活』一九三二年五月特輯號(第四卷第四號)。

(28)

この初出後半は、改題「日本文學に於ける眞實」(『文藝從軍記』〈文藝復興叢書〉改造社・一九三四年六月所收)では削除。なほ餘波としてさらに翌月、『新潮』一九三二年九月號の雅川滉つねかはひろし(成瀬正勝)「文藝時評」が先月の杉山平助「文藝時評」の論を批判すると、十月號に杉山が「雅川氏に答ふ」を投じて反噬してゐる。かうした、自分への批難には必ずや應酬せずにおかぬ杉山の「喧嘩屋」ぶりは度々見られ、その賣出しに一役買ってゐた。

(29)

同じ頃、杉山と親しかった尾崎士郎は「平助は一體何ものであるのか。彼は一日本人の作者として文壇に登場した。しかし、現代のヂヤーナリズムが彼に興味を感じてゐるのは一日本人の作者であるがためではない。このことは杉山平助にとつてはおそろしく心外なことであるに違ひない」と語ってゐる(「杉山平助と『臍』」『讀賣新聞』〈文藝〉一九三二年六月十日〈活字戰線に躍る人々【三】〉)。

(30)

無署名「文藝春秋」『文藝春秋』一九三三年三月號41頁參照。この「文藝春秋」欄は杉山平助の執筆で、該月分を杉山平助『氷河のあくび』(日本評論社・一九三四年十二月)中「續文壇從軍記」に收めるが、この一節は削られて不收録。

(31)

中村武羅夫「ジヤーナリズムの囘顧」(『新潮』一九三四年十二月號〈昭和九年文藝界の動向〉)中「三 文藝時評と匿名短評」參照。

(32)

無署名「文藝春秋」『文藝春秋』一九三四年五月號38頁參照。該月分を收める杉山平助『文學と生活』(〈有光名作選集〉有光社・一九四二年八月)中「續々文壇從軍記」ではこの節は削除。

(33)

同時代の經緯報告として、無署名「ヂヤアナリズムの動き」『新潮』一九三四年五月號108〜109頁→杉山平助『現代ヂャーナリズム論』((18)前掲)所收「ジヤアナリズム走馬燈」中「東京日日對鈴木茂三郎の告訴事件」27〜32頁が詳しく、和解の顛末は、仲裁した菊池寛の「話の屑籠」(『文藝春秋』一九三四年六月號119頁)に發表された。當人の回顧で、鈴木茂三郎『ある社會主義者の半生』「木村毅と阿部眞之助を告訴」文藝春秋新社・一九五八年四月203頁〜205頁、參照。

(34)

鈴木茂三郎にはS・V・Cの匿名で著書『新聞批判』(大畑書店・一九三三年四月)もあり、『文藝春秋』一九三二年四月から翌年六月までの連載「新聞紙匿名月評」より再編したものだが、氷川烈『春風を斬る』((17)前掲)が同じ出版社から翌月の刊行であつたことに注意したい。匿名出版とするのは版元側の意嚮であったかもしれない。

(35)

青野季吉「時代の心臟打診 一 匿名批評の流行」『讀賣新聞』〈文藝〉一九三五年九月七日、參照。

(36)

大津傳書「匿名批評界のこと」『作品』一九三六年四月號〈特輯 匿名批評の是非〉41頁參照。大津傳書も當時の匿名筆者で、同誌目次では肩書は「東朝」。

(37)

「最近の新聞紙上に行はれてゐる匿名文化雜誌批評をどう思ふか」〈ハガキ回答〉『文藝』一九四〇年三月號260頁より。目次では標題は「匿名雜誌批評に對する感想?」。

(38)

板垣直子『現代の文藝評論』第一章一「5 匿名批評の發生と流行」((25)前掲)參照。

(39)

田中惣五郎「〈評論家診斷〉杉山平助論」『日本學藝新聞』第五號・一九三六年三月五日、參照。

(40)

勝本清一郎「匿名批評への二三」『文藝』一九三五年十一月號〈批判と反批判〉120頁參照。

(41)

青野季吉「匿名批評論」((21)前掲)參照。

(42)

正宗白鳥「文藝時評 批評について」『中央公論』一九二六年六月號→『正宗白鳥全集 第二十三卷』福武書店・一九八四年二月116頁、參照。  

(43)

青野季吉「文藝時評 私批判・哲學的批判およびジヤーナリスチツク批判」『政界往來』一九三三年九月號(第四卷第九號)、及びこれを承けた、水守龜之助「青野と小林 いはゆる私批評を排撃する」『都新聞』一九三三年八月廿三日〈大波小波〉→小田切進『大波小波 匿名批評にみる昭和文学史 第一巻・1933-42』東京新聞出版局・一九七九年三月36〜37頁、參照。

(44)

渡徹夫「杉山平助小論」『月刊文章講座』一九三五年十月號〈文壇展望〉(讀者投稿欄)72〜73頁參照。

(45)

大宅壯一「杉山平助を語る」『月刊文章』一九三六年七月號64〜65頁參照。

(46)

青野季吉「文壇ジヤーナリスト論」『日本評論』一九三六年二月號175〜176頁參照。本文標題に記してないが、これは〈ジヤーナリスト列傳〉と題して連載された論の一つ。

(47)

無署名「杉山平助論」『新潮』一九三五年二月號103頁參照。なほその内容から、この筆者は青三吉「杉山平助」(『文藝春秋』一九三六年三月號〈人物紙芝居〉)の筆者と同定できる。

(48)

矢崎彈「杉山平助論――主として彼の批評の性格について――」『新潮』一九三四年三月號〈三作家の人と作品について〉、中村武羅夫「文藝批評家としての杉山平助君」『讀賣新聞』〈文藝〉一九三四年四月十四日〈論壇人 一日一評〉、等が左翼教條的束縛の無さを大宅との相違とする。

(49)

伊集院齊「時を得た樫の木 ▽杉山平助小論△」『帝國大學新聞』五百二十七號・一九三四年五月七日、參照。

(50)

戸坂潤「匿名批評論」『改造』一九三四年六月號→戸坂潤『思想としての文學』三笠書房・一九三六年二月所收→『戸坂潤全集 第四巻』勁草書房・一九六六年七月→複刻『思想としての文學』〈近代文藝評論叢書〉日本図書センター・一九九二年三月、參照。

(51)

青野季吉「時代の心臟打診 一 匿名批評の流行」((35)前掲)參照。

(52)

伊藤整「匿名批評是非(上)(下)」『大阪毎日新聞』〈家庭と學藝〉一九三六年四月二十九〜三十日、參照。青野季吉「匿名批評論」((21)前掲)の檢討から始めるもの。なほ、(下)の題は「匿名批是非」。

(53)

青野季吉「匿名批評論」((21)前掲)參照。

(54)

長谷川如是閑「新聞紙に於ける社會的感覺の缺乏」『中央公論』一九三六年三月號〈特輯 混迷せる新聞界の現状を論ず〉→『長谷川如是閑集 第六巻』岩波書店・一九九〇年五月所收。

(55)

戸坂潤『現代のための哲學』大畑書店・一九三三年二月→改題新編『現代哲學講話』白揚社・一九三四年十一月の「第三篇」(→『戸坂潤全集 第三巻』勁草書房・一九六六年十月)はじめ論多數。中でこの本のみ擧げるのは、舊版新版共に版元はそれぞれ杉山平助の著『春風を斬る』『現代ヂャーナリズム論』を三ヶ月程前後して出してゐる出版社でもあることに注意したいからだ。

(56)

杉山平助「アカデミーの問題」『文藝』一九三七年四月號〈アカデミイの問題〉、61頁より。

(57)

萩原朔太郎「常識とは何ぞや」『作品』一九三六年新年號、125頁(→『廊下と室房』第一書房・一九三六年五月→『萩原朔太郎全集 第九卷』筑摩書房・一九七六年五月)より。

(58)

戸坂潤「常識・合理主義・辨證法」『セルパン』一九三五年二月號→『思想としての文學』((50)前掲)所收、參照。なほ戸坂の常識論としては『思想としての文學』所收「共通感覚と常識」「常識の論」のほか、「常識の分析」『日本イデオロギー論』白揚社・一九三五年七月所收→『戸坂潤全集 第二巻』勁草書房・一九六六年四月、等が主要なもの。

(59)

岡邦雄「杉山平助論」『行動』一九三五年六月號→仝『新アンシクロペヂスト』福田書房・一九三五年六月所收、參照。

(60)

板垣直子『現代の文藝評論』第二章六「4 長老的地位にゐる人々」((25)前掲)225頁より。

(61)

杉山平助「指導と常識」(初出未詳)『氷河のあくび』((30)前掲)182〜185頁、「文藝時評【2】常識的とは何か?」『讀賣新聞』〈文藝〉一九三四年十月五日→「常識的とは」『氷河のあくび』257〜259頁、「如是閑氏の心境打診」『讀賣新聞』〈文藝〉一九三四年四月廿七日〜五月一日〈二つの時代から觀た文學對話【7】〜【9】〉→「長谷川如是閑の心境打診」『氷河のあくび』318〜319頁、「氷河のあくび【2】 常識論呼はり御愛嬌の事」『報知新聞』一九三五年四月廿三日→『文學的自敍傳』中央公論社・一九三六年一月、など。また黒谷文之進「杉山の進歩性と反動性 彼の現代批評論」『都新聞』一九三四年九月廿七日〈大波小波〉、春山行夫「文藝時評 常識の効用と現代の俗物主義」『セルパン』一九三四年十一月號、がこれに關係する。

(62)

小林秀雄「再び匿名時評について」(前掲)、および斬馬人「匿名批評と常識」『東京日日新聞』一九三六年四月十日〈蝸牛の視角〉。

(63)

山崎謙「サクラ的な提灯もち―時評の時評―」『帝國大學新聞』五百二十七號・一九三四年五月七日、より。

(64)

A・B・C「文壇時言」『日本評論』一九三六年三月號、247頁より。

(65)

植田康夫「新聞と文化」田村紀雄・林利隆新版 ジャーナリズムを学ぶ人のために』第10章(世界思想社・一九九九年十二月)161〜175頁。同書新版から増補された章である。

(66)

杉山平助「新聞向きの評論」『讀賣新聞』〈文藝〉一九三二年三月十九日→『春風を斬る』((17)前掲)337〜339頁、參照。

(67)

矢代梓『フユトン・クリティク 書物批判への断片フラグメンテ』「序にかえて――書物批判への断片フラグメンテ」北宋社・一九八七年三月6〜17頁、參照。

(68)

大宅壯一「杉山よ、文學消費者の立場を忘れるな」『讀賣新聞』〈文藝〉一九三四年二月十三日〈註文帳【4】〉、參照。

(69)

大宅壯一「批評態度の問題」『月刊文章講座』一九三五年十一月號、參照。

(70)

大宅壯一「座談會の流行」『セルパン』一九三五年十月號、參照。

(71)

但し、時期は不明だが「一時暫らくその欄は他の人によつて擔當されたやうだが」「間もなく再び杉山氏が擔當するやうになつた」ことがある(原實「飛躍した杉山平助氏」『三田文學』一九三六年三月號〈杉山平助氏の作品と印象〉193頁)。

(72)

小林秀雄「再び文藝時評に就いて」『改造』一九三五年三月號→『小林秀雄全集 第三卷』、參照。また同じくサント=ブーヴを引いた論は、「文藝鑑賞の精神と方法」『日本現代文章講座 第二卷 方法篇』厚生閣・一九三四年十月→『小林秀雄全集 第三卷』224頁、「時評家の危險」『大阪朝日新聞』〈學藝〉一九三四年十二月十四日〈文壇苦言集ちかごろきにくはぬこと(c)〉→『小林秀雄全集 第三卷』315頁。

(73)

十返肇「匿名批評是非」『文藝』一九五五年二月號〈特集 匿名の生態〉21頁より。ほぼ同文だがサント・ブーヴの名を明示したものに、十返肇「匿名批評の功罪」『実感的文学論』河出書房新社・一九六三年十月74頁→『十返肇著作集 上』講談社・一九六九年四月34頁、がある。

(74)

サント・ブウヴ/小林秀雄譯『我が毒』青木書店・一九三九年五月→『小林秀雄全集 第六卷』455頁參照。

(75)

山本健吉「公正の精神――サント・ブウヴ『わが毒』に就いて」(『文學界』一九三九年四月號)、「批評に就いて」(『三田文學』一九四〇年六月號)、『私小説作家論』「跋」(實業之日本社・一九四三年八月)、參照。いづれも『山本健吉全集 第十巻』(講談社・一九八四年九月)所收。

(76)

山本健吉「昭和の批評文學」藤村作編『増補改訂 日本文學大辭典 別卷』新潮社・一九五二年四月、189頁參照。

(77)

サント・ブウヴ/石川湧譯『わが毒舌』サイレン社・一九三五年十月→仝〈改造文庫〉改造社・一九三九年十月。改造文庫版は「譯者後記」を別文に差し替へる。

(78)

ティボオデ/石川湧譯『批評の生理學』「自然生的批評」春秋社・一九三五年九月→〈春秋文庫〉春秋社・一九三六年四月、アルベール・チボーデ/戸田吉信譯『批評の生理学』「第一章 自然発生的批評」冬樹社・一九六九年八月、參照。

(79)

花田清輝「赤づきん――杉山平助の肖像畫」『文化組織』一九四〇年一月創刊號→仝『自明の理』〈魚鱗叢書〉文化再出發の會・一九四一年七月→『錯亂の論理』眞善美社・一九四七年九月→『花田清輝全集 第二巻』講談社・一九七七年九月41頁。『錯亂の論理』所收時に副題やティボオデからの引用出典を示す箇所が削られて、この脈絡が掴めなくなった。

(80)

勝本清一郎「現代文藝批評家論」『中央公論』一九三五年六月號、276頁參照。

(81)

杉山平助「新聞向きの評論」((66)前掲)參照。

(82)

大宅壯一「文壇げてもの傳」『文藝』一九三五年二月號、124頁參照。

(83)

藤井淑禎「今、なぜ同時代研究か」「同時代読者の読みを求めて」『小説の考古学へ 心理学・映画から見た小説技法史』名古屋大学出版会・二〇〇一年二月、參照。

(84)

ミシェル・フーコー/石田英敬譯「歴史の書き方について」『ミシェル・フーコー思考集成 Ⅱ 1964‐1967 文学/言語/エピステモロジー』筑摩書房・一九九九年三月、445頁參照。異譯に、レーモン・ベルール/古田幸男・川中子弘譯『構造主義との対話』「第二章 歴史と構造」中「ミッシェル・フーコーとの対話 ――その二――」〈ブリタニカ叢書〉日本ブリタニカ・一九八〇年二月。フーコーの匿名論が談られてゐるもの。

もり やうすけ、大學院博士前期課程)


初出『語文』第百十七輯(日本大学国文学会・二〇〇三年十二月二十五日)97〜114頁より、誤植を訂して轉載。

▲刊記▼ 【書庫】たのしい知識 > 一九三〇年代匿名批評の接線――杉山平助とジャーナリズムをめぐる試論――

發行日 
2004年1月25日 開板/2004年1月28日 改版
發行所 
ジオシティーズ カレッジライフ(舊バークレイ)ライブラリー通り 1959番地
 URL=[http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/GS/anonymous01.htm]
編輯發行人 
森 洋介 © MORI Yôsuke, 2003,2004. [livresque@yahoo.co.jp]
亂丁落丁(リンクぎれ)、誤記誤植、刷りムラ等、お氣づきの點は、乞ふ御一報